日蓮「闘う仏教者」の実像 松岡剛次

2023年11月25日発行

 

表紙裏「地震や疫病、蒙古襲来など、激動の鎌倉時代を生きた日蓮天台宗ほか諸宗を学び、三二歳で日蓮宗を開いて法華経の信仰を説いた。鎌倉を本拠に辻説法で他宗を攻撃して圧迫を受け、建白書『立正安国論』の筆禍で伊豆に、のちには佐渡に配流された。死をも恐れぬ『闘う仏教者』のイメージがある一方、民衆の苦しみに寄り添う姿も垣間見られる日蓮。自筆の書簡、数多くの著作をはじめ、史料を博捜して、その思想と人物像に迫る。」

 

目次

はじめに

第1章 立教開宗へ

第2章 立正安国への思いと挫折

第3章 蒙古襲来と他宗批判

第4章 佐渡への配流

第5章 身延山の暮らし

おわりに

あとがき

 

宮沢賢治の作品を理解するには日蓮を知る必要がある。日蓮研究には思想史的研究(教理的研究))と歴史学的研究がある。本書は前者の成果に学びつつ後者の方法論を駆使して日蓮の実像に迫ろうとしている。

・16歳で出家した日蓮清澄寺天台宗の修学に励み、比叡山延暦寺で受戒を得て、清澄寺に戻った後、名を蓮長から日蓮に改めた。当初四箇格言のように4つを批判していたのでなく念仏のみを批判していた。初期の弟子の中核的存在として富木常忍がいた。東条景信から目のかたきのようにされ、立正安国論北条時頼に提出した。松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、小松原法難を経て、『法華経』の色読を通じて法華独勝の立場に立ち、他宗批判が強くなっていく。忍性らのハンセン病患者などの救済活動について日蓮は指摘していないが、これらの活動には莫大な資金が必要だった点を無視していたと言える。延暦寺に念仏が入り込み、延暦寺を飛び越えて直接最澄との結びつきを石機するようになった。龍ノ口刑場跡での光り物出現話は日蓮は見たのだろうが、それを見た武士が驚いた結果、殺されなかったのでなく、忍性らが武士の暴走を知り静止した結果と考えられる。蒙古襲来の予言が当たったとする宣伝もあって信者は増えていった。佐渡流罪時に開目抄・観心本尊抄を書き上げ、思想を深めていった。身延入山後、撰時抄・報恩抄・三大秘法抄を著す。曼荼羅本尊は120幅以上に伝わっている。熱原の法難が起き、最後の手紙「波木井殿御報」を書いた。日蓮の死後、輪番守塔制が定められたが交通不便な当時は実行困難だった。波木井氏が日向を身延山第二代と定めたこともあって、日興は身延山を下り分派した。

・本書は偽書とされる遺文も使用した。忍性らの活動を知るには使えるはずだからである。「官僧と遁世僧」の観点から日蓮の人生を見直した。

・20年以上も編集担当者に世話になった。