勅使河原蒼風(草月会会長) 私の履歴書 文化人6

昭和58年12月2日1版1刷

 

①先祖は豪族-「嗚呼忠臣勅使河原父子」

②父から独立して草月流を創設

③内職しながら研究生活

④他流からの風当たりと草月講堂の建設

⑤真のいけばな

⑥戦時中の失業と駐留軍婦人への教授

⑦造形美術として海外へ進出

⑧新しいオブジェの確立と草月会館

⑨誇るべきサムとマチウの壁画

⑩私の人生に終点はない

 

市ケ谷小学校卒業後、府立四中に合格したが、父が進学を許してくれず、父の膝下で勉強し、成蹊女学校の恩田正造先生に古事記を習う以外は独学させられ、ひまがあれば花をいける生活をさせられた。26歳の時に父と意見対立して家を飛び出たが数年後に再び一緒に住み活気ある生け花にしようという悲願は共通していたので平和な親子関係に戻った。飛び出した時に草月流と名乗った。料亭で花を生けるうちに弟子が出来、20人弱位になった頃、銀座千疋屋斎藤義一氏から声を掛けられ草月流第一回花展がふたあけした。そこで大沢豊子女史と出会い、ラジオでいけばなをやることになった。評判になり12回連続でやると、主婦の友等からも注文を受けるようになった。無料展覧会を改めて有料展覧会を始めた。いけばなの世界では自然尊重派と自然玩弄派がいつも対立している。私はその両方から生まれたと思う。いけばなは床の間の飾り物ではない。戦後すぐにマッカーサー元帥夫人をはじめとするアメリカ婦人たちにいけばなを教えることになった。これが再起のきっかけを与えてくれた。海外でいけばなを広めてくれた。昭和27年に初めて渡米した。30年からはフランスを中心にヨーロッパ各地へも出かけた。フランス国家から1960年に芸術文学勲章、61年にレジョン・ドヌール勲章を与えられた。最近ではいけばな、彫刻、書の三刀使いが普通になった。草月に関係する人が百万を越えると言われるようになり、池の坊、小原流とともに三大流派と言われるようになった。昭和33年に丹下健三氏の設計で草月会館を完成し、パリの世界今日の建築コンクールで最高賞を貰った。世界いけばな大会をオリンピックの翌年に開いていくことが決議された。日本が誇りにしていい催しだと思う。(昭和50年9月5日死去)