昭和58年12月2日1版1刷
①芸事に縁起のいい誕生日
②ぶらくり横丁の鯉のぼり
③実母と別居の悲しみ
④「明治三十年画史」に入選
⑤明治画学生ポーズ
⑥新婚-姉弟と間違われる
⑦「東京パック」時代
⑧第1回文展「隣りの人」入選
⑨文展に“とこしへにさらば”
⑩渡米-東洋美術に感動
⑪初めての日本画作品「観光客」
⑫再興日本美術院
⑬樗牛賞-院友となる
⑭思い出深い「神戦の巻」
⑮第10回院展初日に大震災
⑯新しい出発-青龍社創立
⑰彩管報国時代
⑱“面映ゆく文化勲章胸に佩び”
・明治18年6月6日和歌山生まれ。私の少年時代はずいぶん平凡なものだった。中学へ通うと絵を描くことに情熱を持ち、英和辞典にのっていた挿絵を全部模写しようとしたが、Dで頓挫した。読売新聞社に懸賞金付きの応募に投稿したら4枚入選して賞金を得た。父が医者にさせようとしたので、医者を志すという条件で渡米する予定で三中を中途退学した。ところがアメリカ航路のボーイでなく北清航路であったため諦め父の親類の病院長の別荘に書生のような立場で入り込み、黒田清輝氏が指導する葵橋洋画研究所に通った。内紛が起こり太平洋画会に移ったが3か月でやめてしまった。漫画の東京パックを出していた有楽社に入社に月給取りになった。油絵「秋色」が勧業博覧会で入選したのが本格的な油絵として初入選となった。次に東京パッピーで挿絵生活を送ったが廃刊となり、実業之日本社の傍系「少年パック」の編輯を引き受け、新聞小説の挿絵に進出したいと思い始めた頃、国民新聞社に入社し、第1回・第2回文展に入選した。その後は落選が続き、挿絵の仕事が繁盛してきたので挿絵画家生活に入った。半年のアメリカ旅行を経験し、帰国後、大正博覧会に「観光客」を出品し入選、第2回院展に「狐の径」が入選、第3回院展に「霊泉由来」、第4回院展に「神戦の巻」が入選した。翌年挿絵生活の足を洗い、作品で生活の糧を得るようになった。高島屋で第1回作品展を開いた。私の大作主義は理解されず美術院同人の席を去った。青龍社を樹立し、戦後も青年の情熱を失わず自由奔放に思い切った仕事をやり続けようと思っている。(昭和41年4月10日死去)