昭和58年12月2日1版1刷
①幼少のころ
②父母のことなど
③初めて上京
④美校学校入学
⑤修業時代
⑥初めの肖像彫刻
⑦制作態度の変化
⑧岩村透先生
⑨肖像制作に興味
⑩美校の教授に
⑪わたしの教育法
⑬帝展から追い落し
⑭金属回収と戦う
⑮戦争は終わった
・明治16年生まれ。祖母から「お前は偉くならんでもいいが立派な人になってくれ」と言われて育った。明治35年に上京し兄の助手をし、美術学の専科に入学した。卒業するまでに千二百位彫刻をこしらえた。無我夢中でたくさん制作しているうちにいつしか訓練を積んでいた。彫刻家は画家とちがって立体の目を取り戻して彫刻的デッサンができなければならない。美術学校3年の時(23歳)、仁礼景模像を制作すると一等に入選した。客観に徹する態度に徹して「墓守」「闇」を制作した。大正五年から文展審査員、大正十年に東京美術学校の彫塑科の教授になった。月謝なしの塾を作ろうとして朝倉彫塑塾を作った。肖像彫刻は内面的に思い切り観察しなくては作れない。相手を通して社会とか人生だとか分かってくる。そうまでしなくては肖像は作れるものではない。約四百の肖像を作った。ロダンが120、ミケランジェロが80位だから肖像だけでは世界の彫刻家の中で私が記録だろう。(昭和39年4月18日死去)