かけはし 慈しみの人・浅川巧 中川なをみ

2020年9月19日発行

 

表紙裏「特別な人のための特別な道具ではない、市井の人々が使い込むことによって、なお美しさをます朝鮮の白磁・木工。その美を見出し広く世に伝えた浅川巧の功績は、今も韓国・朝鮮の人々に語り伝えられる-。」

 

目次

Ⅰ 芽吹き

自然の豊かさを愛する祖父の下で幼少期を過ごした浅川巧。農林学校を卒業し営林署に勤めたが、兄伯教と母が暮らしている朝鮮に渡ることを決心する。

Ⅱ 成育

  朝鮮の人々の生活に溶けこみ、植林事業の職を得、また朝鮮の工芸に魅了される日々を送りながらも、一方では、日本の朝鮮に対する統治や差別の現実を思い知らされる。柳宗悦との出会いから、朝鮮民族美術館の設立に動き出す。

Ⅲ 樹立

  植林に関する画期的な発明、朝鮮民族美術館の開館など、喜ばしいことの陰に日本国内の災害や巧自身の悲しみと苦しみ、そして新たな生活の日々がつづくように思われた。

 

浅川巧年譜

あとがき

解説:澤谷滋子

 

父に早くに死なれ、祖父の伝右衛門に育てられた巧と兄伯教。兄は師範学校を出て小学校の教師となり、巧は農林学校に進んだ。二人は甲府メソジスト教会で洗礼を受けた。巧は農林学校を卒業後、19歳で大舘営林署に就職した。日韓併合と同じ年だった。兄は母を連れて朝鮮に渡った。兄から荒れた朝鮮の山を何とかしようと誘われて巧も23歳で朝鮮に渡った。朝鮮の山が荒れたのは火田伝の焼畑耕作の影響のためだった。兄は巧が朝鮮に到着するなり、高麗青磁白磁が飾られている店に連れて行った。巧は朝鮮で山林課林業試験所の雇員として採用された。朝鮮に来て2度目の2月を迎えた巧は結婚した。柳宗悦が来朝した。巧の植えた朝鮮カラマツと朝鮮マツの苗が順調に育った。朝鮮王朝最後の国王高宗(朝鮮併合後は大日本国帝国の王族として徳寿宮李太王と称された)の葬儀だと思ってパコダ公園近くを歩いた巧は大勢の人が集まっているのに驚いた。その日は3月1日、日本への反感が高宗の葬儀を契機に吹き出し、朝鮮独立運動と発展していった。3・1独立運動に対し日本の軍隊や警察が鎮圧しようとして、朝鮮側の死者は七千人余り、逮捕者は四万六千人と記録されている。兄は教師の仕事をやめて単身で上京し彫刻の制作に打ち込んだ。翌年柳宗悦が再度来朝した。二人は美術館を作る構想を練った。白樺に「『朝鮮民族美術館』の設立について」という記事が掲載され、寄付金が集まり出した。準備を重ね、朝鮮民族美術館主催の展覧会は大成功を収めた。兄の彫刻への意欲は深まり朝鮮美術展で入選・入賞した。巧は露天埋蔵法を成功させた。これにより自然の中で種を植え発芽によい環境を調整し発芽率を高めた。朝鮮民族美術館が開館した。大正15年、柳宗悦民藝運動を起こした。宗悦に勧められて巧は『朝鮮の膳』を出版した。が急性肺炎になり40歳で急逝した。日本人が横柄な態度でいた時、朝鮮人から慕われた巧の死は多くの人に悔やまれた。韓国人後輩たちの手によって巧の碑文は次のように刻まれている。「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここに韓国の土となる」