私の履歴書 運は創るもの 似鳥昭雄

2015年8月25日1版1刷 2015年9月30日3刷

 

帯封「ニトリ創業者 波瀾万丈の一代記 大反響『私の履歴書』に大幅加筆!」「仕事で失敗したり、思うような結果を出せなかったりすると、人は『私は運が悪い』と考えがちだ。確かに運も大きい。私自身、ここまでニトリを成長させることができたのは80%が運だと思っている。だがそれは偶然の産物ではない。『運は、それまでの人間付き合い、失敗や挫折、リスクが大きい事業への挑戦など、深くて、長く、厳しい経験から醸成される』というものでもある。(「はじめに」より))

 

・小学校時代の担任の先生の家族から貰った手紙に「祖母がよくこんな話をしていました。クラスで1人だけ漢字で名前を書けないのは似鳥君だけで、教えても教えても覚えられず、結局ひらがなで書いていました。あの似鳥さんが北海道で成功している。何でなんだろう。そのいきさつが聞きたいとよく話していました」と書いてあった。

・「短所あるを喜び、長所なきを悲しめ」は私の好きな言葉だ。ニト1号店開業は昭和42年で当時は極度のあがり症で上手く接客できない。嫁が販売上手で私は仕入れや物流などの仕事に専念できた。もし私が販売上手だったら街の人気店で終わっていたかもしれない。

・ハチャメチャの小・中・高・大を経験して、父の会社に入社。

・1号店、2号店、3号店と事業を拡大していくが、交渉事は断られてからがスタートだと考え、しかも3回断られても4回目からが本番だと考えるようにしているという。もっともしつこいだけじゃダメ、愛嬌と執念が必要。そうやって3号店をものにした。経理部長と営業部長が乗っ取りを画策し、4分の3の従業員を解雇するなどして難局を乗り切った。

・読売新聞記者を経て経営コンサルタント渥美俊一氏が主催するペガサスクラブのセミナーはAクラスとBクラスに分けて大変厳しかったが、4店舗で売上4億円程度の実績にもかかわらず、ゆくゆくは100店舗作り売上を100億円にすると大風呂敷を広げ、79年は新卒を15名採用した。まだ未成熟だったが、チェーンストアー理論を一緒に勉強し、将来の議論を交わし、社員が理解していくうちに社員が本気になり、社長の私がその熱意に呑み込まれていった。

・本州進出の翌年、海外展開も当初はLCすらよくわからず実践で学び、行き当たりばったりだったが、インドネシア現地生産法人を作り、シンガポール現地法人を作る。南町田店が大繁盛したことで業績を伸ばし、台湾進出、ベトナムハノイに工場を持ち、22年に1000店舗、1兆円を目標に置く。ゆくゆく32年までの第2期30年計画は世界で3000店・3兆円を目指す。

・巻末にプロ150訓およびプロフェッショナル心得帳(抜粋50項目)が掲げられている。

一例として「毎朝、新聞をよく読め。そこには、プロとして必要な99%の知識と話題が、そして考えるヒントがいっぱいある。」とある。