私の履歴書 里見弴(作家) 日本経済新聞社 文化人1

昭和58年10月5日1版1刷 昭和60年3月20日1版3刷

 

①父の訛が生んだ姉の名

②言葉通じぬ母と祖母

③「里見弴」のいわれ

④幼いころ

志摩子行方不明

⑥私は「南陽丸第四号」

⑦仲ノ町小学校時代

⑧いつの間にか明朗な少年へ

⑨「楽天地」学習院

稔彦王が先棒かつぎ

⑪指揮刀とって「行軍」

⑫藤村操の亜流と目さる

⑬軟派のニガ手乃木院長

⑭回覧雑誌「麦」を出す

⑮白樺創刊

 

・明治21年7月14日生まれ。学習院初等学科、中東学科、高等科を経て、当時は学習院高等科卒業の資格で帝国大学英文科に無試験入学できた。が1学期も終わらないうちに退学。一つも聞きたい講義がなかったから。「白樺」を創刊。回覧雑誌「望野」の武者小路、志賀、我々の「麦」、柳宗悦の「桃園」後、有島武郎、生馬、長与善郎など、学習院卒の連中で和気謁々たる仲間だったが、世間周知のこと。北原白秋主宰の「朱欒」(ざんぼあ)に寄稿。漱石の依嘱により朝日新聞に「母と子」を連載。処女脚本「新樹」を中村吉右衛門の為に書く。この稿に一切「ヴィタ・セクスアリス」を除いている。(昭和58年1月21日死去)