1997年1月30日第1刷発行
・大正13年大阪の大同電力の社宅で生れた。小3の時、成績を上げて副級長になってA子に好かれようとして猛勉強した。そして級長になった。勉強さえすれば1,2番になれるという鼻持ちならない自尊心を抱いた。A子が転校すると級長の座から滑り落ちた。成績はあっという間に転落し5年になると家にとり持て余し者になった。父は私を鍛え直すために郊外学園に入れた。中学浪人をした間、塾に入れられた。堺中に落ちたので、奈良県立宇陀中学に補欠入学した。鉄拳制裁に耐えかねて校長に直訴したが、自己保身に汲々としており、寄宿舎から出て下宿に切り替えた。歴史の池田先生を尊敬した。図書館で世界の童話を読んだ。池田先生は時々、日曜日に古本屋に連れて行き、ヘッセ、ジッド、モーパッサンなどの岩波文庫を読むようにと言った。同志社の予科に四修で合格した。太平洋戦争下の青春は暗かった。戦後闇屋になった。欧米文学を読み漁った。同志社に復学して法律に入った。卒業後勧業証券に入社。旧制三高を卒業した菅原清次君から何時まで株屋をやっているんだ、足を洗って小説を書けと忠告の鉄拳を食らった。菅原君は相場の世界に見切りをつけて東大に入学し日大教授となった。勧業証券を辞めた後、産業新聞に入社。髄炎に罹り4年近く入院して一文無しとなり、父が建てた家を売った。母への罪の意識は深まるばかりだった。ドヤで生活した後、キャバレーの宣伝文句を作る仕事についた。向秀子と再会し、生活に張りが出来、水道産業新聞社に入った。7時頃仕事を終え、ナイトクラブに顔を出し11時頃帰宅した後に午前3時か4時迄小説を書き11時に出社した。小説家としてデビューして以来、社会派推理のレッテルを貼られた。「背徳のメス」で直木賞を受賞した。以来、月に4,5百枚は書いた。上半身麻痺が再発し再入院した。煙草の吸い過ぎが原因のようで、柴錬さんと絶交したくない思いで禁煙の誓いを破らずに済んだ。古代史小説を書くよう勧められ「天の川の太陽」を中央公論に連載。現在は月刊誌3冊と季刊誌1冊に連載小説を書き、月に150枚前後を書いている。