鹿島守之助(鹿島建設会長・参議院議員)私の履歴書 経済人7

昭和55年9月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷

 

①詩をつくる父撫松山人・永富敏夫

②文学を愛し、哲学に感動した学生時代

③外交官生活とハウプトマンの影響

④クー伝ほーふの政治理念とストレーゼマンの洞察力

⑤「世界大戦原因の研究」で法学博士となり、鹿島卯女と結婚

⑥選挙に出馬して落選、鹿島組の事業に初めて手をつける

⑦私の経営方針-積極的に進歩改良を

終戦、日本でもジョイント・ベンチュア方式が普及

参議院議員に当選、妻と欧米各国を視察

⑩“高遠な理想を清潔な手段で実現”-これが私の願い

 

・明治29年2月2日兵庫県生まれ。三高、東大と進み、高校時代にはベルグソンの「創造的進化論」の影響を受けた。大学ではラッセルの本をたいてい読んだ。強く印象に残っているのは人間として本能・知性・霊性の3つの結合が望ましい生活だと言っていることである。大学卒業直後、内務省に入り、外交官としてローマに駐在した。中高文にパス、外交官試験も合格したので外務省に入ると通商局2課に配属された。ベルリンに赴任していた時、クーデンホーフカレルギー伯のパン・ヨーロッパ論に触れ、彼からパン・アジア結成の必要を説かれた。帰国後、日英外交文書、日米外交文書に取り組み、外務省顧問として外交文書の整理その他に協力した。鹿島精一長女卯女と結婚した。選挙に出たが落選した。加島組の商号は明治13年1880年)から用いた。請負業を始めたのは1840年。鉄道建設に進出し一大飛躍の機会を得た。私は工事受注方針を大きく転換し、鉄道工事偏重から時代の産業である建築及び電力工事へ積極的に進出した。鹿島をやめて大政翼賛会調査会を運営する調査局の局長を引き受けた。3つの部に10の委員会があり、各委員は貴衆両院議員か学識経験者250名がいて日本が戦争に勝つための調査研究をした。昭和18年9月に辞任した。戦後パージされたが、昭和28年の参院選で当選した。32年に北海道開発庁長官として入閣した。昭和38年には鹿島はモリソン・クヌードセン社を凌いで受注量世界第一位となった。(昭和50年12月3日死去)