昭和55年8月4日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷
①税務署員をやめ進学を決意
②茨木県警務部警部となる
③馬勲?でもらった勲六等
④警察部長の赤線づくり
⑤上海のテロ団を封殺
⑥東条に戦争の前途をただす
⑦農政局長から警視総監へ
⑧終戦二日後二度目の警視総監
⑨大阪商事を再建し大商証券へ
・明治31年12月23日大阪堺の百姓の四男として生まれた。中学卒業後、堺税務署の直税課に就職。2年のブランクを埋め合わせようと1日18時間猛勉強し、一高に合格。東大卒業後、内務省の追加試験に合格し、茨城県警察部警部になる。滋賀、長野の警務課長を務めた後、京都で監察官を務め即位の大礼の警備を仰せつかった。次は北海道の土木部総務課に転勤になり、函館の大火で1万人が死亡した後、国から初の地方復興予算を取り付けて実現した。奈良経済部長、鹿児島県警察部長、埼玉警察部長を務めた後、上海領事館領事、警察部長として現地に赴任した。その後、内地に戻り警視庁の官房主事となった。大阪警察部長、富山県知事の後、農林省の農政局長をやった。昭和19年9月に警視総監の辞令が出て、3月9日に東京大空襲に襲われた。直前その可能性を確かめさせて、心配ないとの回答を半信半疑のまま聞いたために事前協議ができず、悔やまれた。2度目の警視総監を命じられたのは終戦直後の8月17日だった。3か月で辞め、次に財団法人日本粉食協会の理事長、会長になった。大阪商事(大商証券の前身)に関係が出来たのは昭和26年。相談役になってくれとの話だったが、社長の椅子に座る羽目になった。18億の赤字を1年に無くし7億円の利益を上げた。昭和34年に社名を大商証券に変更し、本社も内幸町の飯野ビルに移した。(昭和39年大商証券相談役に就任。42年より新日本証券相談役)