遠き落日《三》 渡辺淳一

2007年5月20日発行

 

第11章 デンマーク

コペンハーゲンの国立血清研究所所長のマドセン博士の下で1年程研究生活を送る。その間、日露戦争が起こり、十篇の論文をまとめた。

 

第12章 ニューヨーク(1)

ニューヨークに戻ると、ロックフェラー研究所の主席助手に任命された。

英世は、研究所に遊びに来た荒木紀男に「人間というのは、40までになんとかしなければ駄目だ。創造力も体力も若いうちのほうが秀れている。一応の仕事をする人は、みな40までにある程度のところまではやっている。俺はいま31だが、40まであと9年しかない。・・休んでいるとすぐ追い抜かれてしまう。それを思ったら眠ってなどいられない」と教える。靴を履いたままベッドに横になり、2,3時間で眼が覚めると顔も洗わずに研究室の机に向かう。学位授与とともにアソシエートになり、2年後にはアソシエート・メンバーに昇格した。白人社会の中で東洋人として異例の昇進だった。取りつかれたように梅毒の研究を続けた英世は、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功し、このニュースは世界を駆け巡った。世界の細菌学者のトップグループにのし上がった。治療薬開発のためにこの純粋培養は大きな第一歩だった。

英世は28歳のメリー・ダアジズという女性と結婚した。2人は結婚する時互いに禁酒を誓いあったが、1か月もしないうちに破られた。ヒッピーのような生活をしていた時代もあり根は悪人ではなかったが、二人ともエキセントリックなところがあり取っ組み合いの喧嘩をした。ただ英世の世話をやくてくれた。

英世は人間発電機、24時間不眠主義者などの綽名がつけられた。

 

第13章 ヨーロッパ

麻痺性痴呆症の患者の脳にトリポネーマ・パリドウムが存在すると考えられていたのを発見した英世は、トリポネーマの発見者シャウジンの弟子でドイツ医学の巨頭ホフマンに標本を送り、ホフマンから賛辞を得た。これにより英世は細菌学の第一人者の地位を得た。ドイツ留学中、ウィーンの学界で講演した英世を世界の医学界の大御所ミュラーが訪ねた。ミュンヘン、フランクフルト、デンマーク、イギリス等で講演を次々と行い、全ヨーロッパにノグチの名は広まる。帰米した英世にまうんと・サイナイ病院から当時の給料の倍近く高い年俸6千ドルで新研究所所長にとの話があり、ロックフェラー研究所のフレキスナー所長に相談すると、フレキスナーは年俸5千ドル支給し、正研究員として永久契約を結びたいと請われアメリカ医学界の最高峰に辿り着いた。39歳の若さであった。英世は京大、東大から医学博士の学位を授与され、東大からは理学博士の学位も授与された。大学を出ず私塾から医業開業試験に合格しただけの者としての初のケースだった。学士院恩賜賞授賞の報せが届く。

 

第14章 帰国

我が国学者に与えられる最高の栄誉で最も権威ある賞である恩賜賞の授賞式に、英世は東大出の田舎学者の前で嬉しそうに貰えるかと言って、仕事が忙しいと理由をつけて出席しなかった。メリーから帰国したらと勧められて帰国した。守之助の前にかけより、小林栄の手を取ると、二人は泣いていた。15年ぶりに郷里の会津で懐かしい母に会った。世話になった八子弥寿平、小林栄、血脇守之助に金の鎖のついた懐中時計3個をお土産として買ってきたが、弥寿平の母は、時計を奪い取り英世の前へ投げ捨てた。英世は度重なる無心をしていたためで、私の夫は、おめごと恨んで死んでいったと言い、両手で顔を覆い、出てけ、泥棒、と泣きじゃりくった。大坂ホテル「琴の家」で少人数の内輪の宴席を設け、そこで英世は母の口に自ら箸でとって運んだ。この場面は全国紙に広く紹介された。シカにはメリーの写真1枚を渡した。出国時、大勢から見送られた。