遠き落日《二》 渡辺淳一

 

2007年5月20日発行

 

第5章 北里研究所

英世はカールデンの『病理学細菌学検究術式要綱』を翻訳して金儲けすることを考えたが、完成しなかった。ただ、この本を熟読するうちに細菌学を専攻する決心が出来上がった。だが、あくまできっかけにすぎず、細菌学をやろうと決心した動機はその学問の華々しさと名声を得るのにもっとも手っ取り早いと考えたからだった。当時はコッホの結核菌、レフレルのジフテリア菌、フレンケルの肺炎菌、志賀潔赤痢菌発見や、北里柴三郎破傷風菌の純粋培養の成功とペスト菌の発見と、細菌学者は全世界の脚光を浴びていた。臨床医には向かないので細菌の研究をしたいと考える英世を血脇、佐藤は応援し、特別に北里研究所に見習助手として入所が許された。英世23歳の時だった。

 北里研究所では下働きしかできなかった英世だったが、転機が訪れる。アメリカ、ジョンス・ホプキンス大学病理学教室のフレキスナー教授が来日したときに英語の堪能な英世が教授の通訳や東京案内に同行して自分の売り込みに成功する。北里研究所で図書掛として不始末を起こし海港検疫所勤めと仕事が変わった。

 

第6章 横浜検疫所

 英世はこの検疫所で勤務している期間に日本で最初のペスト患者を発見した。もっとも正確に言えば、同定したのは北里柴三郎で、ペストに感染した疑いがあることを報告したに過ぎず、ペストらしい患者に初めて接したというのが正確である。英世は北里所長から推薦を受けてペストが流行していた清国に行く。

 

第7章 清国・牛荘(ニュウチャン)

 英世は5日間の船旅の間に中国人と身振り手振りで話をし、牛荘に着いたときには日常会話はほとんど支障なくできるまでになっていた。英世は臨床患者を診ることが楽しく熱心に診療に当たり研究にも励んだ。ロシア語も半年でマスターした。

 

第8章 神田三崎町

 郷里に戻り、八子弥寿平を訪ねアメリカ行きの費用をねだると、小林校長から他人の力を頼っている限り尊敬できないと諭され、神田三崎町の血脇守之助を訪ね東京歯科医学院で学生相手に講義を始めた。ただこれでは渡米費用がいつまで経っても捻出できないので、血脇を通じて紹介された日本医事週報社社長川上元次郎から後に慈恵医大の初代学長となる金杉英五郎を紹介されてアメリカ行きの費用を相談した。しかし北里と半々なら応じると言われ、北里が拒絶したためにこのルートも潰えてしまう。血脇は失意に沈む英世を励まそうと箱根塔の沢温泉に連れて行き、そこで斎藤弓彦と知り合い、姪御と結婚することを条件に渡米費を出すと申し出られてこれを受けることにした。

 

第9章 旅立

斎藤家から受け取った渡米資金もまた英世の浪費癖で遊興費に消え、血脇を頼るしかなかった英世を助けるには高利貸しから借りるしかなく、血脇は衣類から家具一式を抵当に入れて大枚を準備して渡米当日も涙を流しながら訓戒して見送った。

 

第10章 フィラデルフィア

ペンシルバニア大学のフレキスナー博士を頼って渡米した英世だったが、博士は断る。食い下がる英世だったが、博士は応じない。しかし日参する英世を見てさすがに気の毒に思った博士は、毒蛇の研究を進めている、個人的助手として月8ドルでどうかと持ち掛けられ、遂に研究室に入ることができた。独身男性が一人で生活するのに最低月20ドルは必要で黒人労働者でも15ドルが必要だった当時の状況から最低の生活を続けながら、蛇から毒を吐き出させる危険な作業を始めた。ミッチェル博士への紹介状をフレキスナー博士に書いてもらった英世はミッチェルに大ぼらを吹いて猛烈に毒蛇の勉強を始めた。フレキスナー教授がサンフランシスコから帰ってくるまでに毒蛇に関するあらゆる文献を250頁におよぶ文献にまとめて提出した。これによりフレキスナーと英世との強固な子弟関係はこのとき第一歩を踏み出した。ミッチェルと英世の連名で「毒蛇の溶血性最近と毒性に関する予備的研究」と題する論文を発表した。ロックフェラーは総額は百万ドルに及ぶ寄付を申し出てニューヨークに最新の医学研究所が設立されることになり、初代所長にはミッチェル等の推挙によりフレキスナー教授が内偵し、英世はフレキスナーの正式の助手となり、ヨーロッパへ留学することになった。斎藤家との婚約をどうするつもりかと詰め寄られたが、破談覚悟で200円を返すつもりだった。