昭和31年9月20日発行
ルネサンスの万能天才―レオナルド・ダ・ヴィンチ 勝見勝
デビュー作は「キリストの洗礼」の中の天子の顔。師匠ヴェロッキオ先生より出来が良いと言われて、レオナルドの評判は鰻登り。フィレンツェを離れてミラノでレオナルドは多筒式鉄砲を発明し、またペストが蔓延したミラノを救うために理想都市計画を策定する。サンタ・マリア・デラ・グラーチェ修道院の食堂に「最後の晩餐」を描く(未完成)。モンテローザ(4638㍍)に登る(モンテ・ポー2556mに登ったという説もあるよう)。モナリザを始め山の美しさを描くことが出来たのはその経験が生きたから。飛行機、ヘリコプター、パラシュートを考案するなど、万能の天才とうたわれたレオナルド。人間に潜む万能の力を追い求めたところに人間が人間として自信を取り戻すことが出来たと筆者は述べる。
ペスタロッチ
スイスの医者の家に生まれるが、5歳で父を亡くし、貧しい暮らしの中で母に育てられ、新しい政府が孤児院を作る際に院長として白羽の矢が立つ。ペスタロッチの教育のやり方は当時は理解されなかったが、世の中が進むにつれてペスタロッチの教育のやり方こそが本当の教育だと看取られるようになる。
家の事情で中学もろくに出ていなかった兄弟だったが、難しい航空の専門書と取っ組み理解しようとする二人の努力は真剣だった。一つの著書を読むために何週間もドイツ語の辞書と首っぴきをしたことも。難しい学術用語一字のために夜のふけるまで考え抜いたこともしばしば。そして遂に機体に安定板と昇降版の外に自由に方向を決めることが出来る方向版を取り付けて風に乗って流れるグライダーではない飛行機を作製し、動力を取り付けて(軽合金アルミニウムのエンジンを兄弟が製作して)1903年12月17日に世界初の飛行記録を残す。兄ウィルバーライト36歳、弟オーヴィル・ライト32歳。
護国寺ででかいダルマの絵を描き、伝法院で鶏に朱肉をつけて立田川のモミジを描き、富嶽百景や瀧澤馬琴の小説の挿絵を描き、日本だけでなく世界に影響を与えた。
やせた土地に植林事業を展開したダルガス、その前に人を受ける大事業をこつこつやっていたグルントィーがデンマークの二本柱。人口は日本の20分の1だが、貿易にかけては日本の2分の1.世界のバター貿易3分の1近く生産する畜産国に成長する。
エスペラント語を28で発表。ポーランド人のザメンホフは少年時、ロシア人とリトビア語を話す物売りの女性が言い争っている理由が言葉が通用しないことにある現場を目撃し、国際共通語の研究を始めて作り上げる。
ノーベルの秘書になる約束はしたが、そうならず仕舞いと書いてあった(出典は映画「永遠のあこがれ」を小説にした「世界の心」)。世界第一次大戦が起きる1か月前に亡くなるが、生前、平和を願いそのために一生を費やした女性初のノーベル平和賞受賞者。
父親がシューベルトの音楽の才能を認めず、母親が亡くなった直後にようやく理解を示す。母親が死んだ後に父親が反省して、母に立派な作曲家になると誓って安心させてやってくれと言って、シューベルトは一大奮起し、31歳という短い一生のうちに「魔王」を始めとする名曲の数々を送り出す。
黄熱病の病原菌を発見するも、自身が黄熱病で51歳で亡くなる。左手がやけどで使えなくなる引け目を感じていたからこそ誰にも負けない勉強を積み重ねて海外で活躍した伝説の人物。
パストゥール
東フランスのなめし川商人の家に生まれ、絵ばかり描いていたが、蚕の病気の原因を突き止め、タンソ病にかからないワクチンを肺活し、狂犬病のワクチンにも成功した、細菌学の父。