小説・新島八重 新島襄とその妻 福本武久

平成24年9月1日発行 平成24年12月10日3刷

 

裏表紙「故郷・会津を離れた八重は兄が生き延びていたという京都へ向かう。その地で英語を学んで西洋文化に触れ、キリスト教の洗礼を受けるに至る。そして兄の友人・新島襄と出会い、結婚。二人はキリスト教への偏見、政府の無理解、資金難など幾多の困難と闘いながら、同志社の礎を築く。また女性の自立を目指し奔走した。激動の明治維新を生きたある男と女の物語。『新島襄とその妻』改題。」

 

巻末の佐藤優の解説に、解説者の「キリスト教とは、十字架にかけられて死んだイエスが復活したことを信じる。この復活こそが救済の根拠なのである。この復活の力は、人間の内側にはない。外部(神)からやってくるのである。私が神学教師、そして同志社の友人たちから学んだのは、どのような困難な状況においても、復活のキリストが私を救ってくれるという確信だ。同志社で出会った人々は、何かが違う。他者に対して、自らを犠牲にして取り組むことができる独自の気構えがある。これが同志社キリスト教主義なのだと私は考える」とあった言葉は私には衝撃だった。もう一つ、「八重は戊辰戦争で一度死んだが、京都の地で新島襄を経由して復活のキリストと出会ったことにより、よみがえった。そして、もう一つの人生を送ったのである。現下の日本は危機的状況に陥っている。悪あがきをせずに、われわれは一度、死んでしまう気構えを持たなくてはならない。するとそこから、復活のキリストによって、われわれに命が与えられ、日本は再び復興する。」とも。

 

・兄のいる京都で新島襄と出会った八重は、耶蘇の学校を京に作ると周囲から誤解されても全くめげることなく信念のままに生きる新島襄と兄覚馬が何としても学校を実現すべく尽力し、その延長で東京に出かけた時、風貌がまるで変ってしまった尚之助と再会する。京に連れて行こうとした覚馬だったが尚之助は応じない。別れの言葉が今度は尚之助から八重に投げかけられ、涙が溢れ出た。

新島襄と結婚する決意を固めた八重は洗礼を受けた。校舎と食堂が完成し同志社英学校がスタートし、その後女学校の開業も認められたが、兄覚馬が同志社結社人になってから知事にうとまれるようになり、京都府顧問を免じられ、京都府同志社を見る眼は敵意に満ち、宣教師の雇い入れを許さない形で現れた。2年生全員の授業ボイコット事件に端を発して新島襄訓話の際に右手のステッキで左手を叩き始めた。その姿を見て首謀者たちは自ら退校して東京に向かった。新島襄の健康が一進一退を繰り返すなか、その悲願であった同志社大学設立に向けた運動は京都だけでなく全国に広がり、全国20の新聞紙上に寄付金募集を訴え、官立大学のように特定のエリートを養成するものでなくキリスト教主義による一国の良心というべき人々を養成するリベラル・アーツ・カレッジという理想を土台に学術専門部を持つ総合大学をつくるというものだった。48歳で新島襄は亡くなった。