川勝伝(南海電気鉄道社長) 私の履歴書 経済人17

昭和56年2月20日1版1刷 昭和58年12月22日1版6刷

 

①わが故郷-丹波の純朴な農村

②わんぱくだった小中学生時代

③文学少年時代-短歌で新しい人間関係

④兵役と結婚と震災と

学生運動-総長から厳しい注意

電通入社-経済情報、徹底して追求

⑦紡績連合会から寺田合名へ

⑧戦後再建-同友会結成に参加

⑨私と漢方-日中医薬協入りが縁

南海ホークス南海電鉄

⑪末川先生の思い出

 

明治34年7月12日京都府丹波の生まれ。京都二商卒業後、同志社に入学したが退学し吉見紡績の社員になった。1年後立命館大学専門学部経済学科に入学し、関東大震災を機に友人と京都売文社を設立。待鳳小学校の高等科と兼任する。経済学科卒業後、同大学法経学部経済学科に入学した。京都学連事件を通じて学生社会科学運動に無力を感じた私は引きこもって専ら本を読んだ。大学卒業後は電通に入社し、記者生活を足掛け10年経験する中、取材と共に調査・研究活動を続けた。福岡日日新聞の経済面の解説を週2回書くようになった。昭和11年電通の通信部は同盟に合流し、私も同盟大阪支社に移るが、翌年同盟を退社した。東洋紡績からの庄司乙吉社長から声が掛かり、紡績連合会に入った。その後、寺田合名会社に入社。敗戦後は民間放送会社設立に向けて努力し、日本と中国の問題を追求する決心をした。日本内燃機株式会社の監査役、翌21年取締役に就任し尼崎製造所を担当した。尼崎経営者協会の会長をつとめた。日中医薬協議会の初代北村徳太郎会長と関係を持った以降、漢方とは縁が深く、北村会長の歿後、私が会長に就任した。現代の漢方薬大阪展で私の漢方観に決定的な影響を与えた。南海ホークスのオーナー就任は昭和43年。近畿日本鉄道の種田虎雄社長から声を掛けられ、南海電器鉄道の監査役就任、昭和43年には社長に就任した。立命館大学が戦後軍国主義のために連合軍総司令部の忌諱にふれ、存亡の危機に立たされたことがあったが、末川博先生が総長に就任し新らしい教学路線を確立し乗り越えた。77年に末川先生が旅立たれた時は巨木、大衆の中に倒るという実感を持った。満76歳で今なお現役の仕事を持ち最後の責任を果たしたい。