この世をば 藤原道長と平安王朝の時代〈下〉 永井路子

2023年11月30日第1刷発行 

 

裏表紙「優秀な二人の兄が相次いで病死、長兄の子・伊周との政争にも勝利した道長。やがて一条天皇のもとへ長女彰子を入内させ、のちの後一条天皇が生まれ、権力を握る。彰子に仕えた紫式部清少納言など王朝の才女たちも鮮やかに描いた王朝歴史小説。《解説・尾崎秀樹、澤田瞳子》」

 

花山院に矢を射奉る事件に中宮定子の兄弟の伊周、隆家が関係していたことが明らかとなり、内大臣伊周は太宰権帥に、中納言隆家は出雲権守に左遷された。が母貴子は動転して、いつまでも旅立つことがなく騒ぎとなる。その最中に定子は正式な出家ではないものの自ら髪を切る。定子は身籠っていたので兄弟は恩赦を期待していたが、生まれた子は姫だった。東三条院詮子の病気平癒のために恩赦が決まり、隆家が帰京し、伊周も1年後に帰京する。大宰府から奄美の海賊が襲ってきたとの飛駅が届く。数年前に宋の商人が若狭国に上陸し、淡路守だった藤原為時が越前守に任じられ、娘の紫式部と共に越前に赴任した。高麗と大宋国が押し寄せてくるのではと慌てふためいた道長左大臣を辞して出家する旨申し出るが、帝に許可を得られずしばらくして元気を回復した。再び定子が懐妊し、彰子の入内を延期するか迷った道長だったが、定子の出産以前に入内するのに間に合った。彰子が入ったのは藤壺と名付けられたところだった。彰子が帝と対面したその日に定子は男皇子を産んだ。彰子の立后が叶い、彰子が中宮、定子が皇后宮と呼ばれることになった。ところが皇后宮が再び懐妊する。道長は再びノイローゼとなり左大臣を辞する旨申し入れるが、皇后宮は出産時に亡くなってしまう。体調を崩した詮子は伊周兄弟を本位にと願い出ることで、兄弟は許された。その直後に詮子も亡くなる。この頃に紫式部の夫藤原宣孝も亡くなる。本位に戻った伊周兄弟と道長とは和解の機運が出る。彰子が身籠り、男児を安産した。敦成(あつひら)と名付けられた。彰子は2人目の男児も出産し、敦良(あつなが)と命名された。ひっそりと伊周が世を去った。彰子の出産直前、45歳の男盛りだった道長紫式部におみなえしを差し入れたことが噂になる。一条は危篤に陥り、敦康でなく敦成を東宮に選び、亡くなる直前に譲位が行われた。36歳の三条が即位し、道長の娘妍子(けんし)が立后の内示を得た。がこれは藤原済時の娘娍子を立后とするための誘い水であることが分かると、三条天皇道長との間はギクシャクし始めた。明子の子顕信を蔵人頭とする話が本人に伝わったか不明だが、突然19歳の顕信が出家した。娍子立后当日に道長は妍子内裏入り日を敢えて当てて三条天皇との対決姿勢をあからさまにし、立后儀は未曾有の寂しさとなり、道長は公卿を結集して実力を誇示した。こじれた三条と道長の関係は妍子懐妊により雪解けの季節を迎えたが、女児を出産したために再び関係はぎくしゃくし、折しも内裏焼失したことで三条と道長との人事を巡る激しい争いが続く。が盲目に近い三条天皇は文書に眼を通すことができなくなるが、三条天皇は娍子の第一皇子敦明を東宮にすることに執着した。けれども、伊周の兄隆家は大宰府で刀伊の侵入を経験した後、帰京するが、その時には既に三条帝は退位し、敦成が後一条として即位し、道長は摂政に就任していた。詮子の役目は彰子が引き受け、道長の時代は取りも直さず彰子の時代を迎えていた。道長は摂政の肩書を帯するだけになったが、それは息子頼道を内大臣に押し込むためだった。道長は摂政をやめると内大臣になりたての頼道を摂政にさせ、自らはようやく従一位となり、初めて妻倫子と同じ位に並ぶ。娘の彰子、妍子、威子がそれぞれ太皇太后、皇太后中宮となって三宮を独占した時、道長は「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠む。晩年道長は出家し、刀伊の来襲はその直後のことだった。道長は13歳になった末娘嬉子(きし)を入内させた。ところが、嬉子は男児出産直後に死亡し、顕信、妍子と次々に死に、道長の栄華は音を立てて崩れた。人々は末法の世到来と思った。妍子死亡直後、道長は断末魔の悲鳴を上げながら死んだ。