刀伊入寇 藤原降家の闘い 葉室麟

2011年6月25日初版第1刷

 

第一部 龍虎闘乱篇

藤原道隆の四男隆家の幼名は阿古。17歳で公卿に列し、天下の「さがな者」(荒くれ者)として名高く、自分に相応しい強敵を求めていた。父道隆の没後、権力は道隆の弟道兼、その弟道長に移り、嫡子伊周とその弟隆家には叔父道長が面白くなかった。円融天皇から譲位を受けた花京院(諸貞親王)は道兼に騙されて仏門に入り呪詛を行い、隆家は敵が出来て内心喜んだ。陰陽師安倍晴明は、隆家は刀伊いと戦い、日本を救う存在となると予言した。隆家は従者に道長の従者を襲わせ、花山法皇の衣の袖を弓で射貫いた。長徳の変が始まった。中宮定子が皇子を産む前に、隆家は出雲権守に、藤原伊周(これちか)は大宰権帥に左遷された。隆家は2人の不思議な人物と出会う。1人は乙黒と言い、もう1人はその妹の瑠璃で、瑠璃は7日間隆家に通い続け、7日目に刀伊の物語を聞かせた。刀伊とは高麗の北に住む女真族で、渤海国の末裔だった。国を統べるに足る高貴で猛き血が欲しいと述べ、7日目に契りを結べば隆家をいつか討つことになるが、契りを結べぬので自決しようとした。結局、隆家は瑠璃と契りを結び、瑠璃は隆家と高麗の血を引く勇者を身籠った。

 

第二部 風雲波濤篇

時は流れ、藤原道長は全盛を極めていた。道長の娘彰子が入内し中宮となり、定子が皇后になるという正妻並び立つ状況を背景に、隆家は刀伊襲来が予想される太宰府へ自ら望んで赴任した。太宰権帥を任じられた後、遂に刀伊は侵攻する。率いるのは瑠璃の子の鳥雅(うや)。船約50隻、3000人の船団で対馬壱岐を来襲し博多を襲った。刀伊と鳥雅は直接対決し、勝負はつかず、刀伊は高麗まで逃げた。対馬まで追撃したが、高麗の領土まで追撃すれば国同士の闘いになるため、深追いはしなかった。高麗も自国を戦場としない日本の対応を了として、拉致して連れ帰った数百の日本人を解放して日本に帰還させた。日本の危機を防いだ隆家だったが、朝廷は私闘と扱い恩賞に値しないと考える者もいた。しかし隆家を評価する藤原実資道長の意向から部下への恩賞を認めさせた。もっとも道長は隆家は恩賞のために戦った訳でないことを理解していた。美しきものを守るために戦う隆家像と、雅と汚濁に塗れた平安貴族との対比は鮮やかである。道長の「此の世をば我世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の和歌も効果的である。

本筋と離れるが、隆家の姉中宮定子に仕える清少納言紫式部の激しい対立も描かれている。天皇の寵愛をめぐる定子と彰子の諍いは『枕草子』や『源氏物語』を生み出し、清少納言は没落する中関白家の美を称え、紫式部は栄華を誇る道長のまわりで悲哀に沈む女たちをいとおしんだと表現。ちなみに紫式部の呼び名は父親が長く式部丞を務めたことから藤式部、あるいは源氏物語の登場人物にあやかってのものとしている。