土川元夫(名古屋鉄道社長) 経済人13

昭和55年12月2日1版1刷 昭和58年12月22日1版7刷

 

①医家に生まれる―名門愛知一中へ入学

②浪人生活―クジで四高受験を決める

③四高入学―剣道部で全国優勝を経験

④数多くの思い出を胸に秘めて金沢を去る

⑤京都帝大へ―学友会運営で教授と対立

⑥苦闘の連続―かさなる肉親の死と左遷

⑦爆撃下の保線に機動班率いて東奔西走

⑧初代労働組合委員長から取締役に就任

⑨労担時代―労使協調で合理化を推進

⑩多角経営―名鉄百貨店経営へ乗りだす

⑪モンキーセンターとバスターミナル建設

明治村の建設―日本の文化を後世に

⑬名商会頭就任―「生涯一書生」が望み

 

・明治三六年月東京生まれ。後に衆議院議員となった愛知一中の日比野校長は、知育、徳育、体育を学ぶべき三育とし、これに秀でることわれらの道なりと教示された。基礎的なものを学んだ。金沢の四高、京都大学法学部に進み、卒業後は就職したが、郷里に帰れと家の命に従い、名古屋鉄道に入社した。事業課長、用品部長、厚生部長を経た後、本社部長から現場管理部長に左遷された。戦後、運輸部長を命じられると共に労働組合の執行委員長に推薦された。執行委員長として人事異動を要求し、人心一新を図ろうとした。案に汲み込んだ精神は前君の寵臣はこれを尊重すべしという鉄則で、これを見た須田副社長は人事権を運輸部長である私に戻そうとしたが辞退した。その後取締役に推薦された。瀬戸線で34人即死の事故が起き、事故処理は運輸部長の私があたった。労務部長に左遷された。周囲に合理化反対闘争があったが、労使担当として合理化の問題提起に踏み切った。合理化研究員、合理化委員会、各分科会を設けて会社全体を洗い出し、2年で20億円以上の経費節約に成功した。合理化とは機械化ではなく頭の切り替えである。50億を投資して百貨店経営に乗り出したが、松坂屋との交渉は打ち切りとなり、阪急百貨店の応援も得て、副社長として取り組む。地上18階地下2階の東洋一大きいバスターミナルを85億で建設。その計画中に名鉄社長に就任。明治村の企画を重役に話した時は気違い扱いされたが、現在は日本の重要文化財が7つもある。名古屋商工会議所会頭を昭和43年に引き受けた。(昭和49年1月27日死去)