植村甲午郎(経団連副会長) 私の履歴書 経済人10

昭和55年10月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版7刷

 

①祖父厚十郎は将軍家に従って静岡へ

②苦学の父-一家を伴い十代で上京

③厳格な父と封建的な祖母に仕えた母

④札幌のモダンな社宅で幼児期を過ごす

⑤慶応幼稚舎で“独立自尊”の精神養う

府立一中では校風に合わず不良扱い

⑦一高時代の果てしない数々の想い出

⑧東大政治学科を卒業後、農商務省

⑨兵隊生活中に見合い、除隊後に結婚

⑩秘書官として仕えた五人の農商務大臣

関東大震災-火災保険問題で大混乱

⑫欧米の基幹産業をつぶさに視察

⑬新設された企画院の調査部長に就任

⑭企画院辞職後、統制下の独伊を視察

⑮戦時下に石炭統制会の理事長に就任

⑯戦後の追放生活と「経済団体」の歴史

経団連副会長として微力を尽くす

 

・父は苦学力行の人で、小学校卒業後、役所勤めの傍ら専修学校の夜学に通い経済学の講義を聴いて勉強し、牧師の植村正久さんに教会で英語を習い、25歳で高等官になった。父は若いころカール・フォン・シュタインの伝記を読んで非常に感銘を受けたとよく言っていた。プロシャ人で農奴を解放し工業化を進めプロシャの完全統合を成し遂げ遂に総理大臣となってドイツの基礎を築いた人である。

明治27年2月12日東京生まれ。生後すぐに北海道に移住したが、小3から慶応幼稚舎に移った。勉強するため府立一中、一高、東大法学部政治学科へと進学。高文試験に合格し寺内内閣の時に農商務省入りした。資源局で調査課長を10年近く勤めた後、総務部長となった。関東大震災の時は農商務大臣秘書官だったので保険の支払に関し大変な経験をした。農商務省が農林、商工両省に分離されたのを機に秘書官をやめた。終戦後間もなく私はかつて企画院次長だったので第1回パージに該当した。経団連の母体となる経済連合委員会の副委員長を務めたが、パージが民間全般に及び経済界を去った。5年後に復帰し依頼17年になる。(昭和43年から49年まで経団連会長をつとめた。53年8月1日死去)