昭和55年12月2日1版1刷 昭和58年12月22日1版7刷
②東大時代―セツルメント運動に情熱を
③鐘紡に就職―悲喜こもごもの工員生活
④日本電工に―義父森矗昶にしごかれる
⑤アルミ事業に苦労、原料転換で活路開く
⑦昭電疑獄事件―敗戦の波動にのまれる
⑧追放の身―趣味・娯楽にもまぎれぬ心
⑨復帰―社長に就任、世界企業を目標に
⑩海外視察―世界の大企業に学ぶ事多し
⑪相次ぐ難関乗り越え、石油化学技術導入
⑫社外活動も―肥料行政改革に奔走する
⑬昼食会での演説が合衆国下院の議事録に
⑭逆境に燃える事業魂、窮するもまた楽し
・千葉県勝浦生まれ。日蓮宗の精神が張り詰めている地域だった。県立千葉中学に進み、兄の勧めで山形高校に通い、大学卒業後は鐘紡に就職。1年半で鐘紡をやめ、岳父森矗昶に招かれて日本電工に転職。森は人使いが荒かった。深夜1時、2時頃に社長宅に呼び付けられることは珍しくなく、日曜祭日もなかった。森は電気が過剰で余っているのに電気を原料としてつくった製品を外国から輸入するのは外国から電気を買っているに等しいから、輸入品をかたっぱしから国産化すると言って、次々に国産化していった。特に硫安、アルミニウムに心血を注いだ。森は日本電工と昭和肥料を合併させ、昭和電工と命名。戦後は追放となったが、昭和28年10月に6年ぶりで昭和電工に中外製薬副社長のポストを辞して復帰。佐竹社長を専務の立場で支え、佐竹さんの後に社長に就任する。昭和電工を世界の代表的化学工業会社に高めようと決意した。森矗昶は国産技術一点ばりだったが、私は外国技術導入と取り組む。これはいずれも技術優先主義の点で共通している。座右の銘は「窮するもまた楽し、通じるもまた楽し」。(昭和46年昭和電工会長。47年4月24日死去)