岩倉具視 言葉の皮を剝きながら 永井路子

2008年3月1日第1刷 2008年3月20日第2刷

 

帯封「孝明天皇暗殺の真相は⁉ 下級公家がいかに権力の中枢にのし上がっていったのか―歴史という魔物に挑み続けた永井文学の神髄、ついに刊行」「構想40余年。歴史の“虚”を剝ぎながら、卓越した分析力と溢れる好奇心で、真摯に史料と対峙し続けた評伝の最高峰。 とにかく、これを抱えつづけることで私は死なずに生きてきた、ともいえる。-あとがきより」

 

あとがきによると、著者は、直木賞を受けた直後に「岩倉具視を書きたい」と言うと、岩倉家嫡系の御子孫での岩倉具栄氏が手をさしのべてくださったとのことである。

本書は、下級の小公家岩倉具視大久保利通、品川弥次郎という貧弱な構図の中で、具視が秘中の秘を語った場面から始まる。慶福派と慶喜派の対立は肥大化した一橋派の分裂であり、そこに癖馬直弼が行方を遮り、慶喜の実父奔馬水戸斉昭は一旦は捩じ伏せられるも、アメリカとの通商条約を締結したことで再び跳ね上がる。孝明天皇は戊午の密勅で井伊下ろしを命じるが、小競り合いの果てにこれも水の泡と帰す。斉昭と井伊の死後に出てきたのが福井藩松平春嶽長州藩主敬親・家臣長井雅楽薩摩藩主斉彬と養女篤姫土佐藩山内容堂ら。彼らは思い思いに走り出そうとしていたが「公武合体論」を旗印にした。和宮と14代家茂の結婚問題と、孝明天皇の諮問相手に具視が選ばれた時期は一致する。具視は孝明天皇の信頼厚い近習である伏見奉行内藤正縄や所司代酒井忠義に近づいていた。具視の御降嫁具申は幕府の力が衰えかけていることから実権を奪い取る好機であり、実を取るべしというもので、この意見の効果は絶大だった。天皇の寵姫堀河紀子は具視の実妹であった。和宮の出立に随行した具視は家茂直筆の誓書を巻き上げて鮮烈に表舞台にデビューした。具視の仇名は守宮(やもり)。そんな具視に接触したのが大久保だった。が奈落の底に蹴落とされてしばらく表に登場しない。薩長の相克も繰り返され、公家の中でも激しい権力争いが吹き荒れていた。著者は1864年、攘夷は終わったと指摘する。長州の下関での外国艦隊との敗北、薩摩の英国軍艦との交戦で戦力の差を見せつけられたところで薩摩が英国に急接近をはかり始めたことを理由にする。奈落の底にいた具視は薩摩にすり寄り、度々意見書を薩摩に書いて送った。具視は薩長が手を組んで公家の味方になってほしいと言い続けた。そして具視は「(薩摩は)全く長を提灯侍に用ひ候」と書簡中に書いていた。薩摩とくっついた具視の公家政治の復活を阻むのは中川宮であったため、この壁を崩すために家茂の死をきっかけに動いたが再び今度も叩きのめされた。孝明天皇崩御。具視毒殺説(実行は妹の堀河紀子)があるが、堀河は近侍する位置にいない。歴史学者石井孝氏がこの説を支持するのを紹介しつつ、具視による毒殺否定説の佐々木克氏が悪性の天然痘であったことは病理学的に検討した結果明白になったとしたことを著者は支持するようだ。大政奉還の後、具視は大久保、品川と“秘中の秘”を口にした。王政復古により幕府が消滅しただけでなく、摂政関白も吹き飛ばされた。これをやってのけたのが岩倉具視である。これにより中川宮を放り出すことに成功した。著者は、小御所会議の休憩中に西郷が“短刀一本で片づくさ”と発言した事実はないとする。岩倉公実記に具視が西郷にあった記事がないからだ。副題の「言葉の皮を剥きながら」にこめられた甚深の意味は本書を読むことによって味わえる。一連の明治維新歴史小説を読み続けてきたからこそ、今回、この本に出会えてよかったと思う。是非多くの人に手に取ってほしい一冊だ。