2007年9月7日第1刷発行
継嗣が慶福に正式に決定し、慶福の後見を篤姫に頼んだ家定の意向を無視する大老井伊直弼。そんな中、斉彬の死去の知らせを受ける。新幕府の樹立の野望のための一齣として篤姫は自分が利用されたことを知り血の気が引くとともに、家定薨去の知らせも相次いで受ける。ただ篤姫が知ったのは薨去して1カ月後だった。孤独を感じる。1年7月の短い結婚生活。天璋院となる。井伊直弼による安政の大獄が始まる。慶福は家茂(いえもち)と改名。天璋院は西の丸に移る。朝廷と幕府の融和のため和宮降嫁の縁談話が進む。天璋院は御台所には武家の出が相応しいと思っていた。直弼急死(桜田門外の変)。直弼を推した滝山は直弼の独裁ぶりを後悔し辞任したいと申し出るが、天璋院は慰留し一丸となり支えていきたいと頼む。和宮降嫁のためには入輿後も京都との緊密な連絡を保ち風俗習慣を生涯変えないという条件が示される。また天璋院は武家出身であり位が違いすぎるので郷里に戻れとの要請を受けるがこれは拒絶。和宮に内親王宣下の沙汰があり、親子(ちかこ)と賜る。和宮が登城すると天皇に誓約書を迫る。和宮と天璋院の初対面が果たされるが、天璋院には用意されていたしとねが和宮になかったことが京都方の感情を害す。和宮からのお土産には天璋院とだけ書いてあり、様も殿もなかった。江戸方と京方という言葉が使われ、江戸方は京方を監視し、京方は江戸方を見下す態度を取る。往復の不便回避のためと嫁の御台と親密になりたいとの考えから天璋院は本丸に戻る。和宮側から御台所と呼ぶのは止めて欲しい、宮さまと呼んで欲しいと要請され、女中たち全員を集めての異例の場で滝川は天璋院の言葉として、耳をふさいで我慢せよ、京の御風に逆らってはならぬと指示する。和宮が病で伏せた時に心尽くしの見舞いを重ねたのが通じたのか、将軍の次に和宮が天璋院に挨拶を述べることが出来、関係修復の兆しが見える。慶喜後見職にしても、国勢は厳しく、上洛することに。この最中、西の丸が火事にあう。再建された西の丸に移って欲しいと要請され、どうやら本丸に戻るなとの朝廷の要請らしく、融和の望みが絶たれ、天璋院は二の丸に移ることを決断。天璋院が本丸御殿を占有し、和宮が召使いの部屋に住んでいるとの噂は事実無根であるのに、なぜ和宮が何をさておいても拒否されようとも自ら釈明しないのか、和宮の心は未だ京都に向いていると思い知らされる。天璋院はその後大奥の催しごとには顔を出さず、報告を受けるだけにとどめて必要な指示を出した。本丸炎上、二の丸も全焼し、10日ほど将軍と和宮と天璋院は生活をともにし、曙光が見えた。西の丸を完成させ明治の皇居へと引き継がれる。家茂が2度目の上洛を終え、第二次長州征伐へ。その直前、家茂は滝山に跡目には田安亀之助を定めたい旨伝える。英国の兵庫開港を承諾する条約勅許が下ったことを聞くと、宮は何のために徳川に来たのやろと呟き、天璋院も何故に大奥を苦しめて宮を東下りさせたかとなじりたい思いで一杯になる。京都で家茂が脚気にて薨去(21歳)。和宮は天璋院が嫌いな一橋慶喜を推す。死顔を見た天璋院は慶喜に毒殺されと思う。宮は静寛院宮の院号を賜る。兄・孝明天皇が崩御する。睦仁親王が皇位継承し、甥の明治天皇のみが肉親となる。慶喜は15代将軍宣下を受ける。慶喜の開港勅許奏請の強行は討幕と王政復古の運動を促進し、大政奉還となり、征夷大将軍の辞表も提出した。鳥羽伏見の戦いが起こり、大阪城に多くの兵を残して慶喜が逃げ帰ると、天璋院は当初は引見を拒否。が、幕府が朝敵と汚名を着せられ、朝敵の称のご赦免を願いたいと頼まれ、次からは静寛院宮も同席する。そして慶喜ばかりか天璋院も静寛院宮に慶喜赦免と家名存続を願い出る。慶喜は恭順の意を示し、江戸城総攻撃が迫る中、天璋院も死の覚悟を決める。世に言う無血開城が決まるが、大奥からは一人として脱走者は出なかった。腰砕けの家臣たちに対して天璋院は一人城を明け渡さぬと気を吐く。3日だけの移住との方便を信じて僅かな荷だけを持って天璋院と本寿院は一橋邸に移り、静寛院宮と実成院は清水邸に移る。慶喜は隠居、田安亀之助が徳川宗家を継ぎ、禄高は駿府70万石と決まる。宮は京へ戻る。島津家より天璋院に年間3万両の進上申出があったが拒否する。天璋院は一橋下邸、青山紀州邸、尾州下邸の戸山邸、赤坂の相良邸と、千駄ヶ谷の同居ができるまで目まぐるしく転々とした。天璋院は家達(いえさと)と名を改めた7歳の当主亀之助の養育に没頭する。天皇皇后が京を去り、皇太后も東京に来たこともあり、宮も東京に戻る。再開を果たした宮は天璋院と行き来し、天璋院も度々宮と町の見物に出る。徳川家再興に向けて今度こそ心を一にできると思った矢先、宮は脚気衝心で32歳で薨去。天璋院は家達と泰子の二人に対し島津家と縁組を望み、慶喜一族との婚姻禁忌を要請した。48歳で生涯を閉じた。弔問に訪れた人の数は多かった。遺骸は上野寛永寺、家定と同じ墓所に葬られた。天璋院なくば徳川家は瓦解し滅亡し果てたに違いないというのが家達の口癖だった。
高貴な生まれの人は、大変なんだな、とつくづく思う。