命もいらず名もいらず(下) 山本兼一

2010年3月25日第1刷発行

 

第四章 朝敵

 精鋭隊 慶喜が京から江戸に逃げてきた。鉄舟は勝に会って力の差が歴然としている以上は開港通商して力を蓄えるしかない、朝廷と幕府が喧嘩している時ではないと諭され自らの考えを変えた。朝廷への恭順しかないと考えていた慶喜に拝謁した泥舟は軍事委任に命じられ、鉄舟らに精鋭隊の結成を命じる。慶喜の身辺警護で絶えず側にいる鉄舟に対して感じたことを述べよと言われて鉄舟は徳川家に執着することの誤りを説く。民を第一に考えるなら江戸城を捨てよと。翌朝、慶喜は東叡山寛永寺に入り恭順謹慎の態度を示す。

 駿府へ 慶喜の考えを西郷隆盛に伝えるべく、それなりの立場の使者を繰り出すが、官軍の足止めをくらってしまう。代りに鉄舟に白羽の矢が当たる。途中、清水の次郎長に会い、そこで着替えをし、薩摩の篠原国幹宛に西郷に面謁したき儀ありと認めた手紙を届けてもらう。殺されるのを覚悟で一日座禅を組んで待つ鉄舟の姿に次郎長は感心する。遂に西郷と対面した鉄舟。3日前に江戸総攻撃が決まったので時既に遅しという西郷に対し、民を救いたまえと頭を下げる。西郷は大総督宮に言上して7か条を誓約すれば徳川家に寛大な処分とすると告げる。鉄舟は慶喜を差し出せという条件以外は飲むと言い、最終的に西郷預理とすることで決着。ここで「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困りもす」との有名な西郷の言葉が登場する。西郷は続けて「始末に困る人物でなければ、艱難を共にして、国家の大業は為せぬ」とも。急ぎ江戸に戻り吉報を届ける。勝が政治家らしく、イギリスと西郷それぞれを相手に交渉し硬軟両様の対応をするのを見て鉄舟はまっすぐ赤心で突き進むことしかできない己との違いを肌で感じる。

 上野戦争 勝と西郷の談判によって、江戸無血開城は成り立った。しかし江戸中で血気立った連中があちらこちらで気勢を上げるため鉄舟らは鎮火に奔走する。上野の東叡山寛永寺執当の覚王院と輪王寺宮彰義隊始め解散命令に応じないため必死に解散するよう説得するが埒が明かず痺れを切らした官軍は遂に上野総攻撃を決定する。彰義隊は数百人の戦死者を出し、遂に時代は慶応から明治に改元された。

 

第五章 流転

 大移動 水戸から駿河への移封となったことを慶喜に伝えるために水戸に走った鉄舟は、あちこち奔走するうちに「こころが熟し、高き志をもつ者は、ついにことを成すことができる」「常に全身全霊でことに当たる」精神満腹。おれはなにはなくとも、その伝で行こうと決めた。恭順の意を示していた咸臨丸だったが、官軍の戦艦は容赦ない攻撃を加えた。

 新天地 徳川家の大勢の家臣が駿府に移動し、牧之原台地の開拓に着手する。龍澤寺の星定に参禅を願って座禅を組む。日本を背負う気負いは病であるといじられる。一時期、水戸や伊万里に出掛けて不満分子を追い出すなり精神満腹を腹で話してくる鉄舟の姿を英子は好ましく思う。

 

第六章 大悟

 出仕 勝に説得されて天皇の侍従に任官した鉄舟。征韓論を機に参議を辞した西郷は薩摩に戻り、鉄舟は陛下に命じられて迎えに行く。が西郷の薩摩を離れぬとの覚悟は変わらぬことを知り、酒を酌み交わして帰京する。 

皇城炎上 火災に見舞われた皇城に馬で急ぎ駆けつけると、景光を取りに行こうとする侍従のために火傷しながら景光と侍従を抱えて屋敷から出てくる鉄舟。酔った陛下から相撲を取ろうと言われ固辞するも仕方なく取らざるを得なくなったが結局陛下が前のめりに倒れてしまう。謝罪だけでは実がないという鉄舟に酒と相撲を辞めるとの決意を聞いた鉄舟はそれでようやく退出し自ら蟄居する。木村屋のあんパンが和洋折衷と評判になると天皇も食することになる。

両刃鋒を交えて 禅の修行に励んで大悟に至る。

「ほうっていても間違いのない者は、なにもこっちから進んで面倒見てやる必要がない。始末に負えぬやつを叩き直したり、厄介者の面倒見てやるのが、本当の世話だ」、「つねに求めつづけていれば、大悟はふいに、あたりまえの顔をしてむこうからやってくる」

 

第七章 春風

 無刀流 浅利義明との手合わせで鉄舟が遂に勝利をおさめ極秘秘伝を授けられる。「わが無相を、敵に知らしめないことに習熟すべし」「いまだあらわれざる敵の無相を読みとって討って勝つ」。一刀流を引き継いで名を無刀流と決めた。揮毫を求める者が後を絶たず収拾がつかないので番号札を出したことが新聞記事となる。以来、どうしても断り切れない例外だけで8カ月に10万1380枚になった。1日に400枚余り書いたことになる。

 全生 鉄舟は宮内庁に辞表を提出した。10年の期限がきたからである。陛下も立派な30男に成長し鍛えるべきこともない。禅寺を建立し春風館を創設した。

 入寂 かたつむり 富士にのぼらば のぼるべし 精神一到何事かなさざらん

明治21年、享年53歳。臨終間際での、勝海舟三遊亭円朝とのやり取りは泣かせます。

 鉄舟死す。それはそのまま日本の侍の死であった。と結ばれている。

 

100倍の気合をもって、己を極限にまで練る。それにより精神満腹に達す。真っ正直に、命もいらず名もいらず金もいらず、己のために生き抜き、そのまま国のために生き抜いた鉄舟の生き方から学ぶべきことは多い。