春秋の名君 宮城谷昌光

1996年11月25日第1刷発行

 

斉の桓公

 斉といえば太公望呂尚。その子孫が君主として累々と続く。桓公の兄襄公は妹と密通し、それが魯の君主に知られると、魯の君主を暗殺した。襄公が落命すると従弟の公孫無知が継ぎ、これが殺された後に桓公は、管仲が放った矢は帯鉤に当たり死んだふりをして首都に到着し即位した。鮑叔は天下の覇者になるなら管仲を手に入れよと進言して登用した。

 

晋の文公

 名は重耳。兄が申生、父献公の後妻が孋姫である。孋姫は申生を自殺に追い込み、重耳を始め献公の子を悉く追放し、自分の子を太子に据えた。孋姫と新君主が殺され、重臣に帰国を促されて文公が帰国しようとすると、狐偃に反対されて放浪が続いた。長年の放浪の末60過ぎて帰国を果たし君主の座に就いた。

 

楚の荘王

 名君中の名君として名高い。晋と楚の会戦で勝利し楚は覇権を手中にし、天下の実質的な主は楚王となった。

 

呉の闔廬(こうりょ)

 楚から亡命してきた伍子胥は闔閭の意中を察し、鱄設諸(せんせつしょ)を養い、好機の到来を待ち、僚を殺害。闔閭が王位に就き、伍子胥を謀臣にすえ、孫武を将軍に任命した。暗殺という暗さを除けば、見事な英主だった。

 

呉の夫差

 闔閭の子。越の兵の武器に塗られた毒で死ぬ間際に夫差を呼び「仇を討て」と言った。後の『十八史略』で薪の上に寝たと潤色されて「臥薪」という言葉が生まれた。敗走した越王は句践。

 

越の句践

 会稽山に閉じ込められた句践は「会稽の恥」を胸に刻み、「嘗胆」を味わい、復讎の機会を待った。夫差が謀臣伍子胥の忠誠を疑い自殺させたことで、句践は呉を滅亡させた。

 

孟嘗君

 戦国時代で斉の宰相は、太公望の子孫から田氏に変わった。孟嘗君の生きた時代には孟子荘子が生きており、孫臏が孟嘗君の父の近くにいた。