呉越春秋 湖底の城9巻 宮城谷昌光

2018年9月26日第1刷発行

 

楚から戻った范蠡は、再び師の計然を訪ねた。国を治める基本の方法とは、目標を設定したらそのための予備知識を蓄え、調査を積み重ね、その上に予測を立てる、富国が成ればおのずと強兵は成るというのが計然の考えだった。呉の宮中から越王勾践が解放されるのを夢見ていた。呉は越の次に陳を攻めた。范蠡と諸稽郢の二人は陳攻撃に協力する姿勢を示すために呉王への贈り物を満載して船を届ける。呉の様子を直接確認した2人は呉王が子胥を遠ざけているところが呉の弱点となると勘づく。呉王夫差は越王勾践を返し、代わりに范蠡と諸稽郢を人質とした。楚王は急死していた。越に戻った句践は「嘗胆」を独語したという噂が流れた。范蠡と臼は牙門に呼ばれて出向くと、牙門は范家に仕えていた阮冬だった。楚王の死は呉にとり千載一遇のチャンスとなった。范蠡を危険と感じた呉の大宰伯嚭は、范蠡の暗殺を命じる。計然の門で学んだ同僚がいたお陰で討手から逃れた范蠡は、その直後、ようやく呉での人質生活を終えた。牙門(阮春)が手を打ち、呉の正夫人が王を動かしてくれたお陰だった。范蠡と諸稽郢が帰国する船に西施が乗り込んだ。西施は范蠡を一人呼んで帰国後の身の振り方を相談した。馬車に載せられて黎明の刻に宮中から出た西施は湖に沈められた。越の造船情報を猱が子胥に伝えるために遣わしたのが曠だったが、范蠡は曠がやむに已まれぬ事情で越を裏切ったことを突き止めていたが、それを句践に告げるつもりはなかった。むしろ沈められた西施を救うことが出来るのは曠しかいなかった。西施を救うことは絶対に口が堅いことが条件で一種の賭けだった。越の娘を楚王室に嫁がせる役をこなしたのは買人祭林だった。祭林は楚へ向かう途中で西施を乗せ緘口令を敷いた。苦難を経験した勾践は、国民を十年間無税とし、自らは質素倹約につとめ、国力回復を図った。呉の子胥はやがて国力を富ませた越が呉を討ちにやってくると呉王夫差に伝えるが、夫差は子胥を疎んじ自害せよと属鏤(しょくる)の剣を与え、ここに子胥は果てた。乾坤一擲の戦いとなる呉越の決戦が始まった。范蠡の下には、子胥を殺した呉王の首を取るために配下に加えてほしいと申し出た曠が加わった。越に呉王は講和を申し出、2年間は両国は攻め合わないことにした。その間、楚が呉を攻めた。数度にわたる戦いが遂に決着し、越は呉に勝利した。会稽の和を求める呉に対し、范蠡は和睦してはならぬと強諫するが、句践は島に呉王を移しそこで天寿を全うするよう伝えた。しかしそれを潔しとしなかった呉王は自害した。呉王に門を開かせた伯嚭は至宝をちらつかせて命乞いをし、范蠡がそれを見てから生死を定めると告げると、目の前に現れたのが黄金の楯だった。范蠡の父を殺したのが伯嚭だと分かった范蠡は伯嚭を刺し殺し、仇討ちしたことを伝えた。内密の話があると范蠡が言い、句践と二人きりになったところで、君辱めらるれば臣死す、なのに、今日まで死ななかったのはこの日のためであり、事が成った以上、自らは罰を受けねばならないと言って、家臣とともに船に乗って去って行った。商賈人として巨万の富を築くが、次男が人を殺め死刑に処せられ、白斐が悲嘆にくれ病没した。范蠡は晩年は済水に近い小丘に別邸を建て、店は長男に任せて月に1度しか顔を出さなかった。西施も商売を成功させて范蠡を訪ね、2人は再会した。

 

臥薪嘗胆の語意が深~いところから分かった気がする作品でした。