呉越春秋 湖底の城8巻 宮城谷昌光

2017年9月19日第1刷発行

 

帯封「越、存亡の危機! 呉に敗れ幽閉された越王。そのとき范蠡はー。知られざる、古代中国の血湧き肉躍る物語。」「奇襲が失敗し、呉に大敗した越。王まで囚われてしまう。待望の第八巻! 越は呉を奇襲するべく密かに大量の船を造い、林野に運ばせていた。これをとある者から聞いた伍子胥は策を練る。その頃、何かがおかしいと感していた范蠡は公践に伝えるも、句践は秘策を実行する。だが、すでにその作戦を把握していた呉の攻撃により越軍は敗退。ついに伍子胥が率いる兵たちに句践は追い詰められるが、何とかかわして会稽山へ逃げ込む。句践は降伏も亡命もありえず、ここで戦い抜くと、ともに山に籠った兵を前に宣言するが、大夫種の必必死の献策をうけ、呉との講和を進めることをやむなく了承、囚われの身となってしまう。范蠡らはいつか句践が解放されることを信じ、その時まで越国を守り抜くことを誓う。」

 

越が造船し、津でなく林野に運ばせているとの密使からの情報に接した子胥は、相手の上を行く策を考える必要に迫られた。子胥に情報を寄せたのは越から定住地を授けられ越に奉仕することになった猱一族だった。猱とは永苫、永翁の息子だった。彼の妻が子胥の右腕となった右祏の妻となった桃永であり、その子が子胥の側近となった屯だった。呉王の死は痛くも痒くもないが、子胥や屯が死んでもらっては困ると想い、恩に報いるのは今しかないと決めて、越を裏切っても報恩を優先した。越の策を推察した子胥は越王句践に率直に伝えた。が予想を超えて呉が大船団を準備していたため、越の船団は受け身の形であったために敗れた。逃げる越王句践が宮城に向かえばその先には子胥の兵が待っていた。屈氏からそれを聞いて会稽山に籠ろうとするが、会稽山にも子胥の兵が先回りしていた。間近に越王を捉えた子胥だったが、そこに妖術を使う屈暦が現れ、越王と五千の越兵は山に籠った。子胥も范の豪農から水と酒を補給してもらう。句践が呉に敗れ山に逃れてきた時に備えて要塞化したのは屈歴と屈冬だけだった。呉の正夫人は独りですべての者を退去させる時間稼ぎのために身を差し出し囚われの身となったが、呉王はその正夫人を焼き殺すと言ってきた。身代わりに西施が火を放つ直前に姿を現した。句践は食料も尽き兵も尽きた時点でどうするか悩んだところに大夫種が命がけで講和を句践に勧めた。句践はこれに応じ大夫種と諸稽郢の2人を使者として遣わした。諸は呉王の佞臣伯嚭にありったけの財宝を貢ぎ講和を成功させた。子胥はこれに反対したが、呉王は聞き入れなかった。句践は会稽山に3年間幽閉され、句践の二人の子は人質となった。句践は幽閉を解かれ呉に移動し、2人の人質は帰された。句践は呉にて奴隷の如く酷使されていた。その間、子胥は諸稽郢と二人三脚で楚との間でも外交の道を開こうとしていた。