管仲《下》 宮城谷昌光

平成15年4月1日初版発行

 

斉の僖公が亡くなると、遠征に出ていた太子は、小白が君主として立つのではないかとの噂に影響され疑心暗鬼となった。太子は即位して襄公と呼ばれた。魯の桓公に妹文姜を奪われた襄公は妹を取り戻すべく夫妻で招いた。不義密通の噂を聞き付けた桓公は襄公を盗人呼ばわりするとひしぎ殺された。他国の君主を含めて残虐の限りを尽くす襄公の下で国内にいれば何時殺されるか分からないため鮑叔と小白も逃れた。莒に亡命していた。襄公は周から王女を正室として迎えたが、妹とは指示した邑で遭い続けた。王女は急に逝去した。公子糾も亡命を考え始めていた。襄公は公孫無知の謀反で殺された。この直前、管仲も公子糾と共に魯に逃れた。管仲は鮑叔に遅れを取ったと認めざるを得なかった。管仲は公子糾を君主とするためには、小白を暗殺する以外にないと考え始めた矢先、公孫無知が横死した。糾より年下である小白が何をもって兄を凌ぐのか。それを鮑叔は徳の力であり、小白は兄の糾に勝っていると確信して、莒で冷遇された小白を励まし続けて斉の国に向かった。管仲は小白が同じように斉の国に急行しているように想われてならず、公子糾の帰国を急がせた。小白はやはり斉国に先に入っていた。同じ速さで臨淄(りんし)へ向かえば小白の方が早く到着するため、管仲は2日半かかるところを1昼夜で走破し小白を待ち伏せした。管仲の放った矢は車上の小白の腹に命中した。管仲は糾が即位したら斉を去るつもりだった。が、郊に入ろうとした際に斉軍帥将の鮑叔に入国を拒まれた。鏃は小白の体内に入らず小白は無事であった。天は小白を生かした。管仲と公子糾はやむなく再び魯へ退却した。小白は即位し桓公となる。桓公は鮑叔を執政の位につかせようとするが、鮑叔は管仲を推した。魯の荘公は管仲・召忽を引き渡し、召忽は管仲には生きて国家のために尽くせと言い、我は忠義のために死すと毅然と言って自決した。公子糾は斬首された。鮑叔の推薦で桓公管仲と会った。管仲に「社稷を定めることができるか」とだけ聞いた。社稷とは国家と同義である。管仲は「覇者となれば、社稷は定まり、覇者とならなければ社稷は定まらぬ」と答え、これに桓公が応じたことで斉の国で立法と行政の大改革が始まった。富国強兵、都内の区画整理、身分制を定め、君は民を畏れるべきであると説いた。鮑叔は管仲を補佐した。管仲の改革は順調に進み、覇者となるよう努めると述べてから15年目にして周王より桓公は覇者と認定された。管仲は貴族の時代に初めて民衆の為の政治を行い、「倉廩(りん)満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」という不朽の言葉を残した。

 

管鮑の交わり 

 管仲と鮑叔の二人の一生変わらぬ友情を讃える故事として有名である。