孟嘗君2 宮城谷昌光

1998年9月15日第1刷発行 2010年12月15日第29刷発行

 

裏表紙「快男子風洪は学問に志し、武を捨てて商人・白圭と名告る。戦乱の国々を行き交う学者や商人たち。秦の孝公は覇道を進み、公孫鞅に厳格な法の体系をつくらせる。白圭は美しい翡媛を妻に迎え勇踊、魏に囚われた、天才軍略家孫臏を救い出す。法に生きる冷厳な男と、侠に生きる熱い血の男の、鮮やかな対比。(全5巻)」

 

風洪は1年ぶりに無人の家に戻ったが、隣に住む隻真がしてくれていた。風洪は隻真を自分の家に住まわせ尸校を探した。途中で風洪は何者かに襲われ、意識を失った、龐涓(ほうけん)が彼を助け、そこに孫子が現れて風洪を担いで帰宅して命拾いした。風洪は郭縦(しょう)と出会い、互いに十年後に富比べをしようといわれ、負けたら郭縦に一家をあげて仕える約束をした。尸校探しは困難を極めた。尸校を求めて、坎井(かんせい)、邯鄲(かんたん)、濮陽、楚の郢(えい)など方々を回った。何度も尸校の行き先を尋ねた坎井の農夫の中に尸校がいた。尸校は公孫鞅との約束を守って秦へ行くことになる。弟子を取らない尸校は風洪を弟子ではなく客人として迎えた。秦へ行く道々で風洪は尸校の高弟県祜の子息の県回と親しくなり、攸由という尸校の弟子からも色々教わった。秦に向かう途上、土救が風洪に荷が奪われ斉巨が殺されたという。荷を守ってきた厳建も重傷を負った。旅館には龐涓もいた。風洪らは皆を連れて秦に向かった。秦では孝公が改革を決断し、公孫鞅は厳格な律を公布した。風洪は仁が欠けているように感じた。風洪は学問に没頭した。斉は風麗や翡媛を笞で打たせ太子が新君主になり、宰相は太子に琴を教えていた鄒忌(すうき)が就任した。琴と聞いて風洪は顔色を変えた。射弥を暗殺した者たちの背後にいる人物は琴どのと呼ばれていたからだ。この時、風洪は名を白圭(はくけい)と変え、翡媛を妻とし、商人として郭縦との約束を果たそうと第1歩を踏み出そうとしていた。その直後、びん林がやってきた。びん林が結婚したい相手だった孫子が大梁を訪れると、どこかへ監禁されてしまった。白圭は孫子を助けに行くことにした。鄭両は白圭に僕延を紹介し、僕延は孫子が黥刑(額への刺青)と臏刑(両足切断)を施されたことを伝えた。風洪は僕延がかつて盗人だったことを見破ると、僕延はかつての射弥に次いで2度目であると語り、風洪が拾った赤子は斉の公子・田嬰の子であると告げた。その頃、秦では公子虔(けん)が翡媛を見初めて連れ去ろうとした。土救が危機を救ったが、家に火をつけられて家族の皆で逃げた。公孫鞅は孝公に“九仞(じん)の功を一簣(こう)に欠いてはならぬ”と諷諫し、太子駟に対しても刑を及ぼし、公族や貴族には刑が及ばないとした昔を改めて厳格に法を適用した。斉巨が亡くなった後は斉召と厳建と開九の3人しか残らなかった。厳建は、鄭両と斉巨が兄弟だったが、鄭両は斉巨を怨み復讐を考えており、鄭両はもう一人の大商人の柳万と結託して斉巨の荷を襲わせたのではないかと語った。白圭は僕延に鄭両の蔵に入るよう頼み、真珠の帯鉤(ばっくる)を盗ませた。白圭は、恢蛍(かいけい)と公子頎(き)が一つ穴の貉であり、恢蛍のつくった花館に孫子が監禁されていることを突き止めて花館に潜り込んだが、そこには白圭の剣のかつての師であった呉立子がいたが、たまたま賓客として呼ばれただけだった。呉立子も協力して孫子を救出した。後に孫臏と呼ばれた。