風は山河なり 第4巻 宮城谷昌光

平成21年12月1日発行

 

裏表紙「戸田正直の奸計により尾張へ運ばれた竹千代であったが、織田から思わぬ厚遇を受ける。人質を掠奪され、なお駿府に臣従する決意をした広忠は、佐久間氏に送り込まれた隻眼の男の凶刃に斃れる。義元は三河攻略のため安祥城を攻め、竹千代を奪還、制圧への足固めをする。一方、義元の下知により、雨山城に兵を向けた菅沼定村は、戦場で命を落とす。時代が大きなうねりを見せる第四巻。」

 

竹千代を乗せた戸田正直の船は熱田に到着した。戸田は千貫文(『松平記』では百貫)で竹千代を信秀に引き渡した。信秀は和睦を岡崎に申し入れたが、広忠は拒否した。秀信は竹千代を殺さなかった。生母のお大は烈しく嘆いた。今川は雪斎をして戸田を攻めた。今川が、駿河遠江三河尾張の4国の主になれば、甲斐と信濃は義元に帰趨する。義元を6国の主とするための第1歩が吉田城の攻略であり、田原城攻撃は第2歩である。戸田宗家の城は陥落した。信秀が岡崎を攻める日が迫った。広忠は、松平蔵人信孝と上和田に居を据えた松平三左衛門忠倫が岡崎城を攻めるために三左衛門の討ち取るよう筧重忠と正重兄弟に命じた。2人は事を成し遂げた。岡崎は、阿部、大久保、本多の兵で広忠を援護した。千騎未満の兵力で血戦を覚悟した広忠は、敵に撃破された。が敵の信孝が視界から消えた時、敵の思いやりを感じた。三倍以上の兵力を持つ信孝が引き返す理由はほかにないからだった。岡崎衆と織田軍の合戦は牛角だった。雪斎と今川の兵が岡崎から去ると、山崎城にいた松平信孝岡崎城を手に入れようとしたが、放たれた矢が信孝の脇腹にささり戦死した。この翌年、広忠は死ぬ。広瀬の佐久間全孝が放った暗殺者岩松八弥に殺された。植村新六郎は八弥を仕留めた。定吉は広忠が罹病した体にした。天野孫七郎が全孝を殺し損ねたが、今川義元は孫七郎を褒めた。雪斎は今川の軍が岡崎に到着すると南下させた。吉良義安の西条城と安祥城を遮断するためだった。雪斎は吉良義安の悔悟を促したが、義安は無視した。已む無く雪斎は西条城を攻めた。家臣の諫言で義安は和睦した。雪斎は安祥城に向かい、城主信広に降伏を勧告した。信広を信秀に渡すのと引換えに竹千代を取り戻し、竹千代は駿府に向かった。雪斎は安祥城の次に、上和田の砦、山﨑の城、上野城を攻めた。雪斎は孫氏の兵法を深く理解していた。その深度は信玄も雪斎に及ばない。雪斎は義元と晴信と北条氏康を説いて三国同盟を成立させ、その翌年60歳で遷化した。竹千代は元服し、次郎三郎元信と称した。元は義元のそれである。2年後に元康と改名するが、康は祖父清康の偏諱である。野田城を守る定村は、2人の弟の三右衛門定圓(まる)と伝一郎定自(より)の謀叛を押さえることが出来ず、定貴や定満と共に討死した。新八郎と四郎は吉祥山の今水寺まで逃げた。奥平貞勝は所詮菅沼一門の内訌と感じて、今川方と和睦した。新八郎の弟虎之助は足の暗殺を企てた。