ニコライ遭難《上》 吉村昭

1998年12月20日発行

 

ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世は皇太子(当時22才)として日本を訪れた。父の皇帝アレクサンドル3世の名代としてシベリア鉄道の起工式に臨席するため、途中、東洋諸国を巡歴して見聞を広め、日本をも訪れてそこからウラジオストックに赴く予定だった。ロシアからギリシャ、セイロン島、インド、シャム、サイゴン、香港・中国の後、長崎に入港。日本ではロシアで皇太子に面識を持った有栖川宮威人親王を接伴委員長として出迎えた。コライは艦内に刺青氏師を招き左腕に長さ1尺余りの大龍を刺繡し、日本は皇太子一行を歓待した。長崎の次に鹿児島を訪れ、神戸、京都とまわり、人力車で大津に向かった。三井寺での遊覧後、唐崎神社を巡り、湖岸の浜通りを進んだ後、滋賀県庁に到着し、県会議事堂にて昼食を取り、京都に戻ることに。県庁から北に向かった人力車が左折し、東西に通じる京町通りを西に向かうと、後続の人力車と55メートル離れた。

津田岩次郎宅の前を通り過ぎようとした時、一人の巡査がサーベルを抜き走り寄り皇太子の頭に刀身を打ち下ろす。再びサーベルを振り上げて叩きつけた時、皇太子が叫び声をあげ異変が起きたことに初めて気づく。ジョージ親王と車夫向畑治三郎が巡査に向って走り出し、親王は竹杖で巡査の後頭部を激しく叩き、向畑は巡査の腰にしがみつき両足を抱えて後ろへひき、巡査を取り押さえ、もう一人の車夫北賀市市太郎は巡査が投げ出したサーベルで巡査を斬りつけて逮捕した。巡査の名は津田三蔵であった。皇太子の頭部からの出血は激しかったが、「このようなことがあっても、日本人民の好意に対する私の喜びの感情には変わりはない」と言った。応急処置をすませた後、治療には及ばないとして県庁に引き返し、京都に戻った。皇太子の帽子は横側が4寸ほど切り裂かれていた。

ロシア国民が激昂し最大の制裁を加えるべきだとの世論が噴き上がり、万一傷が悪化して死亡すれば宣戦布告することも予想される中、点の有為は自ら陳謝をかねて見舞いに行くと発言。幸い傷は浅いとの報が入り安堵する。ロシア政府には外務大臣から、皇帝・皇后には天皇と皇后から電報を発し、国内報道機関には検閲命令を発した。翌日早朝に天皇は京都に向かった。ロシア側は日本の医師たちの治療を一切拒絶すると不快感を露骨に示し、容態だけ聞いた。ロシア正教司祭の拝謁は許され、司祭の口を通して皇太子の言葉が伝えられた。事件の報道をうけて、日本中、官民ともに不安に身を震わせた。

京都に着いた天皇はシェーヴィチ公使から陛下訪問の際には正装して迎えることになるため明日に延期して欲しいと要望し、翌日皇太子の部屋に入って慰問の言葉を述べ、国家の大賓としてお迎えしたのに、図らずも大津で難にあわれ悲しみに耐えない、ご両親の御心痛は察するに余りある、暴行人は国法により処罰する、一日も早く御快癒なされることを祈る、健康が旧に復せられた後は東京を御巡覧なされることを切に希望しますと述べた。これに対し皇太子は東京に行くかどうかは父皇帝の指示にしたがいますと答える。本国より皇后の強い意向で皇太子に軍艦に戻るよう伝えられ、天皇は皇太子とともに神戸港まで同行することに。天皇と皇太子の護衛のために騒然となったが無事皇太子は出迎えの艦に乗り込んだ。帰国直前、有栖川宮が艦に招待され皇太子から心温まる歓待に感謝している、いったん帰国するが再び日本を訪れたい、この度の事件などけっして驚くには足りない、幼少の頃から度々危ない目にあって傷を受けているなどと述べて和やかな雰囲気の下で会食した。御前会議が開かれ、速やかに誠意を示すことを決め、謝罪使として有栖川宮威仁親王と副使榎本武揚に任命された。