ニコライ遭難《下》 吉村昭

1998年12月20日発行

 

御前会議で責任者の処罰、功績のあった車夫2名への措置を直ちにロシア側に伝え、皇太子の東京歓迎準備を進めたが、シェーヴィチ公使の保身のためか、東京行きを希望した皇太子を押し止めて帰国を強く求めた結果、急遽帰国することに。帰国間際、ロシアの外務大臣ギールスは、天皇、政府、国民が難にあった皇太子に誠意あふれる態度を示していることに皇帝も皇后も十分満足しており、事件の賠償は一切請求しないことを伝えた。また謝罪使も取りやめとなった。艦では皇太子を救った車夫2名を招き、また帰国の挨拶が出来ないことから艦で天皇と午餐を差し上げたいとの申出を天皇自ら応じた。

当時の刑法では犯人津田三蔵は懲役刑。しかし、武力報復を恐れる政府有力者は処刑を主張。対して、司法関係者は公正に津田を裁こうと政府に挑む。近代的法治国家の将来を見つめた司法対政府の手に汗握るギリギリの戦い。この事件で日本の三権分立の意識は高まった。

 津田の取り調べが始まる。当初背後関係が疑われたが、背後関係はなかった。精神状態も疑われたが、自殺したいと述べた津田に対し容易ならざる騒ぎが起きているため、全容を明らかにせねば天皇を悩ませロシアにも相済まないと大津地方裁判所の三浦順太郎が話をし、津田はつつしんで国法の処分を受ける旨応じた。津田は皇太子が最初に東京に来て天皇に挨拶せず長崎、鹿児島、京都、滋賀を経て東京へいくというのはどういう理由からか、その驕慢さは許しがたいとの動機を語り始めた。8日間で調査を終了し予審調査の結果、謀殺未遂罪として無期以下の刑を検討した。ところが政府閣僚と元老は、皇太子への危害は死刑とするとの166条(「天皇三后・皇太子に対し危害を加え、または加えんとしたる者は死刑に処す」)をニコライ皇太子にも適用すれば死刑に出来ると考えて、大審院長児島惟謙(これかた)に166条を適用すべきと伝える。しかし司法省会議では全員一致で謀殺未遂罪として処分すべきであるという。山田司法大臣は法文の文字にのみこだわってはならぬ、内閣はロシアに対する謝罪を第一と考えている、と伝える。そして166条適用の場合は地方裁判所では審理できず大審院に特別権限が与えられているので、管轄違いの訴えを検事から大津地裁に起こすことを命じられた。松方総理は児島に皇室罪を適用して死刑に処せねばならぬ事情を話すが、児島は欧米各国の法律を調べても他国の皇太子に対する特別な法律はなく166条を適用したら外国の軽蔑を受けわが国の歴史の汚点となると説いた。松方は担当する7人の判事を説得する以外にないと考え司法大臣にそれを命じた。死刑に処せねば日露関係は最悪となり戦争勃発の恐れがある中、児島は総理と司法大臣あての意見書を認めた。穂積陳重からも同じ意見を聞き、児島は裁判長堤を訪ね、またもう一人の判事にも会い、7判事中5名が同じ考えであることを知り司法官万歳と叫んだ。児島は事前に166条適用見込みなしとの電報を司法大臣に打ち、再び説得しようとする司法大臣は判事たちに再び会いたいと児島に申し出るが、判事たちは会えば公正さを汚すことになるから謝絶する方が双方のためであると回答しそれを報告した。政府としては三好検事総長には皇室罪適用の主張をさせる方針を決め、法廷が開かれた。判決は謀殺未遂罪として無期刑が処せられた。津田は北海道・釧路集治監で収監されるため船で移送された。政府がロシアに報告すると、ギールス外務大臣はこの判決に満足していると伝えた。津田は自殺を試みようとしたが果たせずほどなくして9月29日急性肺炎にて病死した。大金を受けとった車夫は二人とも身を持ち崩した。

日露戦争の後始末のために開かれた講和会議でニコライ二世は樺太割譲と賠償金支払いを拒絶し、日本はそれを飲んで講和条約に調印した。

 1917年(大正6年)、ロマノフ王朝は崩壊し、ソビエト政府が樹立。翌年ニコライらは射殺された。50歳だった。