2014年6月10日 新装第1刷
明治の時代に、男尊女卑も甚だしい時代に、かくも崇高な信念に生き、命を賭けて行動に移した女性がいたとは?!感動以外の何物でもない。
裏表紙に「時は明治28年である。正確な天気予報をするためには、どうしても富士山頂に恒久的な気象観測所を設けなければならない。そのために野中到は命を賭けて、冬の富士山に登り、観測小屋に籠った。一人での観測は無理だという判断と夫への愛情から、妻・千代子は後を追って富士山頂に登る。明治女性の感動的な物語がここにある」とある。
新田次郎本人のあとがきによると、野中氏夫妻の富士山冬期滞在記録を最初に小説化した人は落合直文氏『高嶺の雪』(明治29年9月25日)。その他では、石塚正治氏の戯曲『野中至』、伊井蓉峰氏の市村座の『野中至氏不二山剣ヶ峰測候所の場』の上演(山口定雄氏らと共に)、千代子夫人の『芙蓉日記』『芙蓉和歌集』なども。昭和23年の橋本英吉氏の『富士山頂』がある。著者は昭和25年に元中央気象台長岡田武松先生から『富士山頂』を読んだかと聞かれ、「読みました。たいへん感銘を受けました」と答えたが、岡田によると、「野中先生は、どうやらお気に召さないらしい」と。筆者は「芙蓉日記」が中央気象台の図書館になく、石一郎の『白い標註』(「小説と詩と評論」)を読んで自分が書く時が来たと感じ、野中先生にも直接会い、さらに野中厚氏から千代子夫人の『芙蓉日記』の写本を借りて、ここに野中千代子を書くことが野中到を書くことになると気づいたという。著者は偉大な日女性の名を挙げよと言われたら真先に野中千代子を挙げるという。明治の封建社会の中にあって高山の冬期滞在記録の樹立という他の誰もが為しえなかった記録を意識せずして樹立した。千代子の方が実は主役であったように思えるとさえ綴る著者。女性優位などという言葉がない時代に千代子ほどの情熱と気概と勇気と忍耐を持った女性が果たしているか、と問う。
その通りの小説だと思う。冒頭に書いたとおり、大変感動的な小説である。
特に富士山頂を目指すために、実の子と水杯の儀式で親子の縁切りの覚悟をした上で実家に実子を置いて旅立つ辺りは涙なしには語れない。覚悟の程が良く分かる。
冬の富士山頂の登山に備えるために登山用の靴を履き山登りの練習をして足腰を鍛錬する、冬の登山用の衣服(下着を含め)をどうしたらよいかについても入念に準備を凝らし、しかも観測技術を学ぶために夫の本を独学で学ぶ。その成果は夫と合流した後に夫の観測数値と千代子の数値が誤差程度しか違わないことで実証される。こまで入念に準備する千代子の執念と行動力に“凄い”“ホントに凄い”と読みながら、我が口から、感嘆符が次から次へと溢れ出てくる。そもそも1日12回観測というルールが人を人とも思わないルールを二人が健気に高山病に罹りながらも死守する姿が涙を誘う。