間宮林蔵《上》 吉村昭

2012年12月10日発行

 

間宮林蔵茨城県筑波郡上平柳の農家の子として生まれた。普請役雇の村上島之允(しまのじょう)の下僕として働き、幕府の下級役人として、択捉島の測量をすることに。その際、シャナやナイボがロシア船に襲撃され、ただ1人戦う意思を持っていたのが林蔵だった。逃げた者全員が江戸に送られたが、林蔵の態度だけは評価されてお咎めなしとなり、蝦夷地に戻る。前後して伊能忠敬に一度師の村上と一緒に測量の指導を受け、またアイヌ語を学び、寒冷地の気候に体を慣らすためにアイヌの食生活を理解し、健脚と頑強な肉体を作った。当時、樺太サハリン島と同一なのか、それとも別で樺太半島なのかは世界的にも確定しておらず、唯一の謎の地域とされていた。フランス人やイギリス人やロシア人の探検家はいずれも半島だと主張し、それが世界の定説になっていた。その樺太北部の探索のため、決死の覚悟で、林蔵は松田伝十郎とともに樺太南端の北端の白主に到達した。林蔵は東海岸を、松田を西海岸を進んだ。林蔵は前人未踏の北知床岬の付け根にあるタライカ湖畔まで北上し、北知床半島のシャックコタン(柵丹)まで行ったが、それ以上北上することは不可能であると判断しシャックコタンに標柱を打ち立てた後、事前の松田との打ち合わせどおり、最も幅の狭い陸地である真縫(マアヌイ)まで引き戻して陸地を横切り、西海岸の久春内(クシュンナイ)に辿り着いた。松田は半月前にクシュンナイを通過し北上していた。ノテトで松田らと合流した林蔵は、フランス人とイギリス人の探検家よりも北の地を踏んでいた。少し先を見て引き返した松田が言うには、この先の北の地は、海がひどく浅く干潟になっていた、対岸に東韃靼の陸地が見え、アムール河の河口もかすかに見えたとのことだった。松田はその先のナツコ岬をまわったラッカまで昇っていたがその先は海が浅く進めないために行けず引き返した。松田はそれで役目を果たしたと言うが林蔵はその先に進みたかった。しかし樺太北部は粗暴な山丹人がいる地でアイヌ人たちはこれ以上危険に身をさらしたくない。そのため松田に再び同道を願い出て二艘の小舟でラッカに向かい、ナツコ岬からは林蔵の舟だけで進んだが、松田同様に先に行くことができなかった。2人は白主まで帰った。