間宮林蔵《中》 吉村昭

2012年12月10日発行

 

林蔵は松田とともに白主から宗谷に戻る。林蔵は再度樺太奥地への許可を奉行に願い出る。ラッカより更に北進し、島であれば東海岸に出て白主に戻れるのでそれを試したいと。許可は下りたが協力してくれるアイヌ探しは難航した。が何とか6人のアイヌを雇い入れ、長さ七間(12.7m)、幅一間(1.8m)の舟で出発した。山丹人から威嚇され、アイヌ人たちは怯え切り、食料の心配をあり、一度は引き返した。トンナイから再度北上に挑戦し、前回松田と合流したノテトまでたどり着いた。酋長のコーニから山丹舟でないと海を進むのは不可能でコーニは山丹舟1艘を持っているので誰にも貸さないが林蔵には貸してくれた。ラッカを通り越し、更に北に進んだ。海が少しずつ開け大陸を流れる大きな川の河口も見えてきた。ノテトからは25里(98キロ)の位置で、アムール川河口を正面から眺めた。更に北上し、ナニオーに着くと、その先は陸地がなくここが樺太の最北端だと聞いた。しかしその岬を回り込んで東海岸に出て初めて島であることが実証できるため、海を回りたいとギリヤーク人に相談したが、舟は砕け散るので出来ないと言う。小高い丘に登ってみると、山丹舟では荒海を乗り切ることはできないと判断し陸地を横切って東海岸に出ることを考えたが、危険極まりない行動のためアイヌ人に反対され、引き返すことを決断した。ノテトまで引き返した林蔵は、樺太北部の事情を調べるためラロニ一人だけ残して残りのアイヌ人を船に乗せて帰した。コーニは物置小屋に住むことを許可し、コーニの下で働き食糧を得た。林蔵はギリヤーク語を学び、コーニに清国とロシアについて質問した。前年に樺太の地名が唐人のなかったものらしいことを知ったが、コーニの話から、樺太北部は清国領東韃靼に貢物を捧げる習慣があり清国の半ば領土に近いことを確認し、ロシア人は樺太に来ていないということだった。林蔵は国法を犯すことになり殺される危険が大であったが覚悟を決めてラロニを残し東韃靼に貢物を手に交易しに行く船に乗せてもらい東韃靼の地を踏む。ムシホの入江に舟をつけ清国の役所があるデレンに向った。一緒に移動していたギリヤール人ラルノに林蔵は間一髪のところで山丹人に殺されかけたところを救われた。役所に着くと日本人がなぜ来たのか調べられたが、林蔵が事実を述べると理解された。元の時代に樺太を支配するが、明になると勢力は衰え、清になって再びアムール川下流地域に進出した。そこでロシアと激突し、清国が勝利した。林蔵は漢字が書けたので役人と文字で会話が出来た。そのこと自体、役人には驚きだった。アムール川河口を訪れ、樺太が離島であることを改めて確認した。オッタカバーハは樺太との海峡が最も狭いところでそこから一気に樺太へ渡った。生きて樺太に戻ることができた。林蔵はラロニと南下し、1年2か月ぶりに白主に帰った。宗谷から松前に戻り吟味役高橋重賢と再会。林蔵は自ら地図と報告書を作成しようとした矢先、師匠の村上島之允の養子貞助が林蔵を訪ねてきた。旅の全容を口頭で林蔵が話すのを貞助が文章にまとめ紀行文とさせた。紀行文の題名を「東韃地方紀行」とし、「北夷分界余話」も綴らせた。「北蝦夷島図」は林蔵自ら筆を執り、体調を整えて江戸に戻る。幕府に提出すると、松前奉行支配調役下約格に昇進した。伊能忠敬から書状を貰い、伊能を訪ね伊能の下で、量地法、測天法等の測量法を学ぶ。蝦夷地に異国船が度々現れ、林蔵は再び蝦夷地に蝦夷地にやってきたロシア艦の艦長ゴロブニン海軍少佐の真意を探るために赴く。途中で両親と再会した後、松前に戻った。ゴロブニンには貞助がロシア語を学ぶために既に接触していたことが分かる。調べを始めたが、ゴロブニンを始めロシア人たちは脱走した。再び捕らえられたが、ゴロブニンの釈放を求めてロシア艦が来航する。エトロフ島襲撃はロシア政府としての行動でなくロシアから謝罪がされてゴロブニンは釈放されてロシアに帰国した。