破軍の星《下》 北方謙三

2008年5月20日発行

 

京より上洛し尊氏を討ち取れとの辰翰が届いた。大義なく小義だが上洛を決意した。朝廷の力を回復し主上の御親政を守るために幾多の人間が死んだ。大塔宮然り、楠木正成然り、陸奥から遠征に従って戻ってこなかった兵たち然りだ、そうやって死んでいった者たちへの義を通すためだった。それでも虚妄の大義より人間的だと思うと安家利通に語った。その上で顕家は京を回復し陸奥に新しい国を作ると主上に奏上し陸奥守でなく一人の人間としてこの地に戻ってくる、それができるかどうか夢が顕家を試そうとしているとも(第7章 静謐の時)。

斯波家長の軍勢11万、対して顕家の軍勢は8万強。義貞が北陸で兵を集め始めた。陸奥守の上洛軍と義貞の軍勢が同時に京の尊氏を攻めるか、京の尊氏が義貞を討ち全軍を関東にいる陸奥守に向かうか。それまで陸奥守を関東で悔いとどめられるか。斯波家長上杉憲顕が小坪で陸奥守との勝負を決するとの見通しで一致し、実際に小坪で激突した。顕家はここでも勝利したが肩に傷を受けた。薄氷を踏む勝利だった。斯波家長を葬り去った。いよいよ京へ最進撃を開始する。10万を越える大軍で怒濤の攻めを行ない美濃で足利軍を一蹴するも、兵站が届かず飢餓が襲い、勢いが衰えてくる。尊氏は自らが征夷大将軍となるが、陸奥守が太政大臣となるか。どちらがこの国を治めるのかの勝負になると直義に語る。尾張から美濃に入った時、顕家は十万の軍勢を率いていた。しかし義貞が北陸から出てくる気配はなかった。顕家勢は次々と勝利を収めていったが、8万程に減ってきた。前方に新手の15万の敵を迎えて顕家は伊勢へ転進し兵を休ませた後に陸奥に帰ることに決めた。これ以上の戦い、兵を死なせることは無意味だと考えたからだった。斬っても斬っても尽きることなく敵が現れてきた(第8章 西を指す星)。

 2か月もの間、顕家は眠り続けていた。その間に麾下の兵は悉く討死していた。顕家は4本の矢を受けて伊勢に駆け込んでいた。騎馬隊だけの麾下80騎が顕家に付き、残り三千の軍勢は安家秀通に預けた。陸奥守が再び起つという噂が急速に広まり、兵も再び集まることが予想されたが、顕家はせいぜい五万程度だろうと予測し、対して尊氏は30万の兵が出せることから、朝廷と尊氏の力がそこまで開いているのを認めざるを得なかった。主上に宛てた「諫奏文」は激烈なものだった。諸国の租を3年間免じること、官爵を重んずること、朝廷を跋扈する雲客、僧侶への接し方を改めること、遊行を慎むこと、法令に厳にすること、愚直の廷臣を排除することなどを細かく例を挙げて書き綴り、全体として政事がどうあるべきかという顕家の意見になっている。これを弟顕信に託して主上に届けることを託した。顕家は秀通を連れて単身8万の軍勢に向かっていった。軍勢を見ることなく、本陣の向こうにある「夢」を目指して。21歳の若者は「私はどんな時でも夢に向かって駈けていたい」と言いながら突撃した。

 

16歳で陸奥守に任ぜられ、享年21歳で、夢とともに果てた北畠顕家。不世出の麒麟児と言われるとおりの人物である。破軍の星とは顕家のことである。