今西錦司と自然 斎藤清明

2022年8月1日初版第1刷発行

 

表紙裏「今西錦司は、いまから120年まえの京都に生まれ、登山家、探検家、生態学者として活躍しました。山が好きで、昆虫、動物もすべて合わせた「自然」をまるごと知りたいという探求心から、日本各地をめぐり、アジア、ヒマラヤ、アフリカをおおいい探検し、登山しました。本書では自然とともに生きた生涯を、錦司自らが語ります。」

 

1 昆虫少年     6歳~13歳のころ

2 山を見つける   13歳~18歳のころ

3 登山に熱中    19歳~22歳のころ

4 山も学問も    22歳~30歳のころ

5 「すみわけ」発見 31歳のころ

6 登山から探検へ  32歳~45歳のころ

7 サルとともに   45歳~50歳のころ

8 ヒマラヤへの夢をかなえる   50歳~55歳のころ

9 アフリカで人類の起源をさぐる 56歳~66歳のころ

10 登った1550山と自然学  晩年のころ

おわりに

今西錦司略年表

 

・今では「すみわけ」という言葉があらゆる所で使われるようになったが、もともとはフィールドで発見したことを説明するために今西が初めて使った言葉だった。4種類のカゲロウ幼虫のすみかが流れの速さに応じて違う場所に分かれていたのを発見した際に使った言葉だった。57歳でようやく京大教授となるまで万年講師だったが、自分のやりたいニホンザルやアフリカでの調査・研究を続けていた。登った山の数は1550山。

・31歳の時、鴨川でヒラタカゲロウ4種が川の中ででたらめにばらまかれているのではなく決まった順序をもって分布しているのに気づいた。場所をかえて採取を繰り返してみると、何度やっても同じ結果だった。なぜカゲロウがそのように分かれて住んでいるのか理由を明らかにするため、仮説を立てた。それが「種の理論」だった。但し分類学の「種」と混同を避けるため「種社会」という用語で説明した。種社会のすみわけがあるとの論文を37歳で提出し、過去に発表した論文と合わせて合計10編で博士論文とし、理学博士の学位が授与された。

・次に「群れ」を研究した。戦時下だったが3度目のモンゴル探検で遊牧論という仮説が誕生した。動物の遊動にしたがって人間が遊動するようになると考えたのが遊牧論だった。人間がヒツジやウマを飼いならしたという従来の見方とは異なる考え方だった。戦後、宮崎の都井岬で半野生のウマの観察に打ち込んだ。併せて幸島ニホンザル研究も開始した。4年の歳月をかけてようやくサルの群れを観察することができ、個体識別法を用いて群れという社会について調べ研究成果を発表した。

・戦後に講和条約が結ばれ、海外登山が可能になったので、ヒマラヤ計画を練った。世界に15座ある8000メートル峰のうち10座がネパールにある、この中から未知のマルナス(8156メートル)を目標に定め、京都大学ではなく日本山岳会として登山計画し、エベレスト登頂に成功した1953年の3年後に第3次隊でマナスル登山に成功した。

幸島での若いメスザル1匹のイモあらい行動がほかに伝わる追跡調査が行われ、同じサル仲間でありながら群れごとに食性がちがい行動にも群れによる違いがあることを見出した。学会でサルが文化を持つかについて発表すると激論が起きた。犬山でのモンキーセンターが作られることになり世界のサルを集めるためアフリカに出掛ける。京大人文研に社会人類学部門が設けられ教授になった。『世界の歴史』第1巻として『人類の歴史』の執筆依頼を引き受け、通常「文明の始まり」で始まる第1巻を歴史学者でない著者が執筆した。岐阜大学長を終える頃に日本山岳会会長に選ばれた。またダーウィンの進化論とは別の登山路を選び「主体性の進化論」(変わるべくして変わる)を著わし、最後に「自然学の提唱」「自然学の展開」を著わした。