宮沢賢治 西本鶏介

2009年3月第1刷

 

明治29年8月27日岩手県花巻に生まれる。盛岡中学(米内光政、及川古四郎、野村胡堂石川啄木金田一京助等が卒業生)にトップクラで合格し、盛岡高等農林学校に進み、18歳頃から仏教にのめり込み、東京に出て童話を書くようになった後、家に戻り(このころ、田中智学が作った国柱会の会員となり法華経にのめり込む)、花巻農学校の先生になる。詩集「春と修羅」や童話集「注文の多い料理店」を自費出版。反響ほとんどなし。農学校の先生はやめ、一人暮らしを始めて、羅須地人協会を作り、無料で肥料設計書をつくったり音楽を教えたりする。再び上京してチェロやエスペラント語を勉強するも、体を壊して実家に戻り石灰肥料の製法・販売の仕事をする。が、寝たり起きたりの生活になる。このころ、「雨ニモマケズ」を手帳に書く。昭和8年9月21日、37歳で病死。

質屋の倅として裕福な家庭に生まれるが、質屋の仕事になじめず、父親(父は浄土信仰)を軽蔑しながら、結局、その父から終生援助を受けながら好きなことをやり続けるという、一面恵まれた環境にいたといえる。さりとて生前は宮沢賢治の童話集・詩は殆ど人から評価されず死後になって初めて評価されるに至るという不遇の人生。とはいえ、弟の清六が兄賢治の遺作を取りまとめ、また賢治の才能を深く良く理解してくれた、夭折の妹トシがいたからこそ、賢治は自らの才能を出し尽くすことができたともいえる。