私の履歴書 中部謙吉(大洋漁業社長) 経済人6

昭和55年8月4日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷

 

①満十四歳で海の人生へ

②高く買って安く売る

③週に一度厳寒の海に飛び込む

④おやじが選んでくれた嫁

南氷洋捕鯨に活路を見い出す

GHQの旗かかげ再び南氷洋

⑦北洋サケ・マス初年から成功

⑧球団三原獲得最下位から優勝へ

⑨美しんなったソ連婦人の服装

⑩大山名人と手合わせ三段もらう

 

・私が第三代大洋漁業の社長についたのは58歳の時。祖父が初代社長で父が2代社長だった。明治29年3月25日明石生まれ。高等小学校を卒業して家業の手伝いをすることにした。下関に本拠地があり、朝鮮にも巨済島に根拠地があり、ハモを買い付けて生簀船にいけ込んで内地に運び、サバの縛り網で氷詰めにして内地に運んだ。朝鮮東海岸の方魚津に本拠地を移し、アジ、サバの巾着網をはじめ定置漁場の直営を行い、ブリは稚魚を飼育して冬に揚げる方法を事業化した。林兼漁業、冷凍・冷蔵を経営していた林冷蔵、本店を合併して株式会社林兼商店に統一し、父が社長、兄が専務、私が常務となった。南氷洋捕鯨のために2トン級の母船を製造する資金や図面を用意し資材を購入して日新丸を建造し、日新丸船団は立派な成績を収めた。戦争が激しくなると捕鯨は中断し母船はタンカーとして役立てた。終戦後造船を続け、漁業権は拡大し、小笠原捕鯨を実行させ、南氷洋捕鯨を再現させた。本業成長につれて、冷蔵船、石油、漁網、漁獲品加工など関連産業にも手を伸ばし、傍系会社50社、従業員は大洋の1万二千人をはじめ計2万2千を数えた。林兼も地方財閥の一つとされ中部全員が追放になったが、陳情を2年続けて追放解除となった。大洋ホエールズに三原監督を招いてセリーグの覇者となると日本一にもなった。趣味は将棋で、大山名人と対局するチャンスを得て三段の力があると認められた。4年程前から日展評議員をしている森田先生に絵を習い、会社のカレンダーに1,2枚自分の絵を載せている。厚木に高等工業専門学校を建て、明石の県立高校、山口大学東京水産大学、北海道水産学部長崎大学に講堂を寄付した。(昭和52年1月14日死去)