昭和55年6月5日1版1刷 昭和58年10月30日1版11刷
①勝気・きかん坊・がむしゃら
②東京へ養子
③唐物屋の小僧
④奉天大会戦に参加
⑤ブロンゲ岬の堤氏との邂逅
⑥“さけかん”誕生
⑦好敵手露人デンビー
⑧禍転じて三社合同へ
⑨島徳事件-杉山茂丸登場
⑩堤清六の思い出
⑪北洋漁業大合同
⑫敗戦―全くのまる裸
⑬日本自由党の結成努力
⑭売り食いでのんきに
⑮北洋漁業再開
⑯大騒ぎされた“狸穴”訪問
⑰漁業交渉のかたわら文化交渉
⑱時代に順応して努力を
・明治14年函館生まれ。小学校を出ると、一度は唐物店の小僧を始めたが、ロシアと関係の深い函館育ちだったこともあり、ロシア語を学ぼうと札幌の露清語学校に入学した。2年修了時に廃校になり、ロシア語の実地勉強のため、南樺太コルサコフの岡部という雑貨店の店員となった。ブロンゲ岬で堤清六と出会い、後に一緒に北洋漁業に従事した。北洋漁業の三羽烏は堤商会、輸出食品、日魯だったが、3社合同となり、堤が取締役会長、私が常務となって日魯がスタートした。堤が急逝し、新しい日魯では窪田四郎が社長、私は専務となった。太平洋漁業では専務から社長に選ばれた。敗戦時64歳で日魯を再建するには新しい政治が必要だった。戦後北海道から立候補して当選し吉田内閣の下で運輸大臣として入閣。日魯の副社長河野一郎は日本自由党幹事長としてコンビとして働いた。追放生活の4年半後、日魯相談役となった。北洋公海漁業と国交回復は表裏の関係にあり、日ソ協会で民間の手で平和関係を推し進めた。会長は鳩山さんにお願いし私が副会長を務めた。日本国際芸術協会で会長に選ばれ、日ソ漁業交渉で政府代表としてモスクワへ行った際、芸術協会会長の立場でソ連の文化大臣になった。79歳になったが元気である。(昭和42年日魯漁業相談役。49年4月4日死去)