故郷忘じがたく候 司馬遼太郎

2020年5月20日発行

 

故郷忘じがたく候

鹿児島の苗代川を訪ねた著者が「沈寿官」の標札がかかる家を訪ねた。秀吉の朝鮮出兵の際に朝鮮人陶工が日本へ連行され、彼らが住み着いた場所が苗代川だった。薩摩藩は、幕末、この地に大規模な白磁工場をつくり、12代沈寿官を主任とし、長崎経由で輸出した巨利を得た。著者が訪ねたのは第14代沈寿官だった。14代は韓国に招かれ大学で講演した。日本の圧制について語るのはもっともでありそのとおりであるが、言い過ぎることはどうであろう、新しい国家は前へ前へと進まなければならないと語った。青松は沈氏発祥の地で、その山には先祖の墳墓もある。著者はその山の様子を14代から聞きながら、雑木林まで著者を連れて行かれ、海のある方角を見ながら、毎年旧暦8月15日には、望郷の祈りを捧げ、それをもって墓参の代わりにしたと聞いた。

 

斬殺

戊辰(慶応4年・明治元年)、薩摩の大山格之助と長州の世良修蔵の2人の参謀がついて、新政府のために奥州鎮定に向かった。日本最強の藩の一つといわれた会津藩を二百人で討てと言われ、仙台藩から応援を得るつもりだったが、仙台藩主に高圧的な態度の世良に対し、殿様に侮辱の言容ありとして藩から恨みを抱かれ、仙台藩は臆病ぞろいとの監物の言葉を真に受け、恫喝の一手しかないと思い込んでいた。世良は想像力がなく、政治の才覚はなかったが、無類の働き者で、火のつくような催促ぶりに居たたまれなくなった仙台藩は藩主自ら藩軍を率いて出陣した。が、仙台から十里に過ぎない白石城まで足踏みをするようにしてゆるゆると行軍し、そこで動かなくなった。「魔王」と呼ばれたこの男は、奥州列藩からも浮いてしまい、浮浪者に過ぎなくなり、首を刎ねられた。

 

胡桃に酒

光秀の三女たまが丹後の国主細川幽斎(藤孝)の長子忠興の嫁となった。光秀の叛乱によりたまは幽居せしめられた。高山右近の細川家への伝道により、忠興は修道士がつとまるほどに聖書知識を得たが、信仰を持つには至らなかった。たまを閉じ込め、知的娯楽のために、まさか入信受洗すると思わず、それを伝えていたが、たまはラテン語ポルトガル語の読み書きがポルトガル人同様にできるようになっていた。たまは秘密のうちに準備を進め、奥の一郭の中で壇を設け、祭具をかざり、侍女のうち入信者すべてを集め、小侍従が聖役を務めて受洗した。洗礼名は「伽羅奢」と名付けられた。それを知った忠興は狂気したが、やがて黙認した。秀吉が死に、利家も死に、家康と三成が対立する中で、忠興は家康のもとに従軍し、たまは三成から大坂城内に移るよう命じられ、力づくで連れていかれるより、小笠原小斎に介錯してもらって死ぬことを選んだ。屋敷は炎上し、たまの遺骸は忠興が望んだとおり見当たらなかった。