重耳《下》 宮城谷昌光

1996年9月15日第1刷発行

 

裏表紙「晋の内乱が鎮静し、重耳の弟夷吾が素早く君主に納まったが、軽佻不徳に人心は集まらず、重耳の帰国が切望された。刺客の魔手を逃れながら、飢えと屈辱の、19年1万里の流浪の末、ついに重耳は晋を再建し、やがて中国全土の覇者となった。─春秋随一の名君を描く、芸術選奨文部大臣賞受賞の名作。全三巻。」

 

驪姫は重耳と夷吾を殺し損ねたことで心を鬱いでいる。詭諸が死んだ。奚斉が君主として立ったが、優施に裏切られ驪姫と奚斉は殺された。卓子が一旦は即位したがすぐに殺された。晋に滅ぼされた翼の公子の優施は行方を眩ました。君主不在のため、重耳に帰国を促す使者がきたが、臣下の孤偃が今帰国することは良くないと判断してこれをとめた。秦の任好(穆公)の後ろ盾で夷吾は帰国して君主の座に座ったが、任好に礼節を欠いた。怒った任好は秦に晋を攻めさせ、夷吾は捕虜となった。太子が秦の人質になる代わりに晋へ戻った夷吾は重耳へ刺客として閹楚を送った。介推(後の介子推)が閹楚を追い払った。斉の管仲が亡くなったことで重耳は孤氏を出発し斉へ向かった。晋との永遠の別れを意味した。途中で食糧を奪われてようやく衛に辿り着いたが、衛の君主の冷たさに重耳は顔を真っ赤にして怒り、即座に衛の国を出た。飲まず食わずの道中で介子推は僅かな食事をかき集めて重耳を支えた。夜盗に等しい身なりで一行が斉につくと、桓公は限りない厚意を示し、貴族の生活を与えた。54歳の重耳は3人目の妻桓姜を娶った。斉で骨を埋める気でいた重耳だったが、桓公が薨(こう)じると、新君主の昭(後の孝公)は喪が明けた後に重耳を卿と言う。悲憤に駆られた孤偃らは桓姜の協力を得て酔わせた重耳を斉から連れ出した。重耳は再び家臣と共に夢を見る旅を続けた。楚へと向かう途中で曹の国に入った。次の宋では斉同様に手厚くもてなされた(宋襄の仁と言われる宋公だが重耳を恃めとの告諭を残している)。60歳になった重耳は鄭に入ったが、重耳殺害を企てた暗愚の鄭公の謀略を告げに来た者から、鄭公の太子子蘭(後の穆公)を連れて亡命させてほしいと頼まれた重耳は楚に入った。楚王は重耳を最も手厚くもてなした。諧謔でもあった。滞在中に秦から使者がやってきて、夷吾の病が篤いので重耳を迎えたいと言ってきた。秦の国境を越えると夷吾は逝去した。太子圉(ぎょ)が即位すると、狐突は殺された。秦でも楚同様の手厚いもてなしを受けた重耳は、秦から懐嬴(かいえい)をあてがわれた。いよいよ晋への帰国の時期が到来し、一万里の旅も終わりを迎えた。重耳は圉(ぎょ)一人を誅し、残りは一人も傷つけたくなかった。圉は周りの者が裏切ったとの妄想から一人で逃亡した。任好の率いた秦軍は退去した。重耳が即位した翌日、圉は討ち取られた。重耳を宮もろとも焼き殺す陰謀が進行していたのを報せたのは重耳の刺客として送り込まれた閹楚だった。陰謀を企てた一味がすべて討ち取られて晋の純然たる統一が成った。晋が楚に勝ったことにより、重耳に従い周の襄王に拝謁した君主は、斉公、宋公、蔡公、鄭公、莒公であり、衛は君主の弟を出席させ、重耳と盟約を結んだ。その年の冬には陳、邾、秦が加わった。重耳は中華の盟主となった。