それからの海舟《上》 半藤一利

2011年12月10日発行

 

目次

プロローグ 「本所の勝麟」ぶらぶら記

第1章 苦心惨憺の“その日”まで

第2章 「虎穴に入らずんば」の横浜行

第3章 空しくなった最後の大芝

第4章 静岡-東京 行ったり来たり

第5章 ふたたび西郷どんとともに

 

・プロローグ、は著者が勝海舟に縁ありとしてぶらぶら歩いた、両国公園「勝海舟生誕之地」の石碑、墨田区役所うるおい広場の勝海舟銅像能勢妙見堂、牛島神社、弘福寺、三囲神社のことが書かれている。

勝海舟の「慶応四戊辰日記」に官軍という言葉が出てくるが、著者は官軍と言わず「西軍」と言い切ってほしい、慶応4年1月5日、東西両軍が激突した賭場伏見の戦場に、西軍の本営に「錦の御旗」が高々と立てられたが、薩長嫌いの忌ま忌ましさもあって「官軍」を自演したとんでもない代物と想像したくなるという。著者の勝贔屓は明らかだ。「(西郷)の指揮下の西軍のやってきたことは、まさに覇道で、王道ではない。きたない策略であり、無法の連続である。・・泣くところでは手放しで泣きながら、キッとなって言わねばならないところでは真っ向から叱りつける。江戸っ子勝つぁんならではの啖呵といえようか」と持ち上げる。

・勝は江戸無血開城の策が敗れた時に備えた作戦も徹底的に練っていた。それが出来たのも年がら年じゅう裏町を歩き続けて、町の人びとの心を結び付けている「精神の感激」を弁えていたからだ。

・著者は、勝とアーネスト・サトウとのことに勝が触れていないことが曲者だとし、恐らく勝はフランスの執拗な介入工作を峻拒し、イギリス公使団が西軍を牽制して欲しいと要請していたのではないか、要は互いにギブ・アンド・テイクの関係だったのではないかと推察している。

・著者は、また勝とパークスとの会談でパークスが「甚だ感激し」た内容はどういうものだったかについても推測している。徳川家の希望、朝廷側の要求、戦にならぬよう全力を尽くしていることを手の内残さずさらけだし、そうした敗軍の将でありながら悪びれることもなく率直に弱点を語る勝に胸打たれたということではないかと。そして文字には残していないが万策尽きた時は慶喜のロンドンへの亡命の相談をしたと。

慶喜の身を案じて一橋家の家臣が集まって出来た彰義隊を海舟は後の手記で非難しているが、それが本気であったかどうか。いざという時の最後の切り札として利用しようとしていたのではないか。

・著者は、勝の慶喜呼び返しの政略は明日の国家のビジョンを見据えての巻き返しだった、早く有為の人びとが力を合わせて新しい合議制の国づくりに踏み出さなきゃいけないと勝は思っていたが、その真意は理解されず誤解され、結果、上野戦争の勃発で勝は生き甲斐まで喪失したかも知れなかった、西郷との会談このかた、勝自身の戦いは一勝一敗というところであろう、と述べている。

・静岡のお茶は、維新後に失意のドン底に蹴落とされた幕臣たちの感嘆すべき努力と忍耐により新たに開墾された原野に栽培されたものである。

・蓮永寺の本堂には海舟・鉄舟・泥舟の書いた「南妙法蓮華経」の掛軸が並んで掲げられてある。勝が建てた父母、妹(佐久間象山の妻)のお墓がある。

・海舟は静岡では今でいう総務部長のような仕事をした。東京より外務大丞、兵部大丞の任命があったが、いずれも御免蒙るとして受けなかった。前者は慶喜の幽閉が解けないことを理由とし、後者は幽閉が解けたものの、海軍でなく陸軍担当であれば能力に余ることを理由とした。

兵部省の海軍担当は、黒田清隆、増田明道、佐野常民、石井靄吉、赤松則良、勝海舟の6人で、この6人が明治海軍の骨格を決めた創始者であるが、海舟は静岡にいたので会議に出席は出来ないが、文書で建言した。ヨーロッパ視察を終えて帰国した山縣が兵部小輔に命ぜられると山縣は西郷を担ぎ出し西郷は再び東京に姿を見せた。ヨタヨタしていた新政府が西郷が加わることで息を吹き返し、木戸・西郷が参議に就任し、大久保以下は各省卿になるという体制となり、一本の廃藩令で国家統一を成し遂げた。パークスはヨーロッパでこんな大変革をやろうとすれば数年間は戦争をせねばならない、ただ一つ勅諭を発しただけで270余藩の実権を収めて国家を統一したのは世界に例を見ない大事業、人力でない、天祐というほかないと言って下を巻いた。

・西郷の最大の魅力は、無欲・無私の人であるということにある。著者は、その実像はそうした高士のみにあるかと疑問符をつける。著者は革命家としての西郷と毛沢東に共通項を見出し、明治の近代化は西郷を排除して可能であったという。特使派遣で手薄になる東京に勝が再び上京。兵部省陸軍省海軍省の二つになり、勝は海軍太輔となる。