それからの海舟《下》 半藤一利

2011年12月10日発行

 

目次

第6章 政府高官はもう真ッ平

第7章 「薩摩軍が勝つよ」

第8章 逆賊の汚名返上のため

第9章 野に吼える「氷川の隠居」

第10章 「文学は大嫌いだよ」

第11章 「我が行蔵」と「痩我慢」

第12章 誰が知る「あひるの水かき」

エピローグ 洗足池の墓詣で

あとがき

解説 頑固な下町っ子風 阿川弘之

 

・大久保には自分独りで考えた主義方針というものはどうも見当たらない。尊王、討幕、開国進取、遷都、廃藩置県、西洋の文物採用、皆自分の発明ではない。しかしその時分の交友とか藩公とかの説で最善と思うものを深思熟慮の上でこれを執って従って堅くそれを守るという執着力の強い性質である。堅忍不抜、一度思いきめたことは非常な執着力をもってそいつを実行できる特質がある。先見家にして自発構想型であっさりした海舟には付き合いたくない人物と思えただろう。

・氷川に隠居した勝には2つの難事業があった。逆賊となった不世出の英雄西郷隆盛の名誉を一日も早く回復してやることであり、慶喜に付せられた「朝敵」の汚名を晴らすことだった。

福澤諭吉の勝に対する『瘦我慢の説』。前段は江戸無欠海上に対する厳しい叱責であり、後段は新政府に仕え爵位を得たことへの非難。一言でいえば、私情に殉じてたとえ相手がいかなる多勢にして強敵であろうと、国を立てるために痩我慢をはりとおし、断固として抵抗し戦うところに古来からの日本人の気風がある、という。それなのに官軍といったところで一、二の雄藩に過ぎない敵に一片の堪え性もなく幕府軍の総大将が少々ばかりの利益を重んじてただひたすらに和を講じ、へなへなとなって哀れみを乞うとは何たることかと。これに対し、著者は、しかし冷静に考えてみよう、その瘦我慢をとおすことで日本全土を西欧列強の代理戦争に投じてしますことが正しかったかどうか。炸裂するような激しさで、美学的な破滅を選ぶ。一国の存亡の責任を負うものとして、そうした一個の凶器となることが、武士道の粋ということなのか。華々しく見栄えがするが、政治家としては決してそうではあるまいと思う、と切り返す。傍証として安吾の「勝夢酔」は面白い。

日本橋の題字は慶喜の筆致。慶喜が出入りを許していたのは勝と渋沢栄一だけだった。勝の「我が苦心三十年」と言わしめて実現した慶喜明治天皇の会見実現。表面的には有栖川宮熾仁親王の弟の進言によって実現したとされているが、勝の背後での裏工作があったから実現したものである。誠心誠意の結果である。が新聞でも著作でもこのことを大げさに語るために問題にされてしまった。著者は勝の真意は旧幕の頑迷古陋な連中におこぼれにあずかろうとするなよと言外にたしなめていると解説していた。いずれにせよ勝は「これでおしまい」と言った通り翌年勝はあの世に旅立った。

・海舟の墓所の左どなりには西郷隆盛の留魂碑と留魂祠が建てられている。黒田清隆らが自浄光寺から洗足に移した。