佐藤喜一郎(三井銀行会長)私の履歴書 経済人8

昭和55年9月2日1版1刷 昭和58年11月18日1版7刷

 

①祖父は横浜市長をやめたのち、ハワイで客死

②中学校へ往復二万歩の通学

③一高時代、野球部で遊撃を守る

④東大を卒業して三井銀行へはいる

⑤渡米し、支店開設に奔走

⑥渡米中の印象

⑦帰国後、結婚して上海支店長に

⑧不況時代、預金をとって叱られる

ガンジーによる独立運動展開中のインドへ

⑩ニューヨーク支店長を経て再び上海へ

⑪神戸支店長-大阪支店長-そして取締役へ

⑫常務になり四カ月目に帝国銀行頭取に

 

・祖父は二代目横浜市長だった。横浜の神奈川県立第一中学、一高、東大英法科へと進み、卒業後は三井銀行に就職。最初の配属は横浜支店で、ニューヨーク支店に異動後、関東大震災後に帰国して本店外国課に配属され、結婚後に上海支店次長に命じられた。シナ料理はふかのひれだけは残してはいけない。中心料理だからこれを残すと料理全体がまずかったことになり主人に対し失礼に当たるからだ。それ以外は次から次へと出てくる料理はみな食べてはいけない。荒ごなしした料理は一つ下の家の子郎党が楽しみ、残ったものは更に下働きの者達を潤すという暗黙の慣習があるからだ。本店に戻ると外国営業部次長となり、ボンペイ支店長としてインドに向かった。インド滞在中に英国の金本位離脱が実行され、商社の主人がインド旅行中に私が語った話が円安推奨のような話として新聞記事になり大変驚いた。ニューヨーク支店長に命じられて再び渡米し1年半して上海支店長を命じられ、日支事変後、神戸に転勤になった。インド、米国、中国の後、9年目にしてようやく任地が日本となった。大阪支店長を長年務めるうち取締役になり、戦後、常務になった直後に銀行の頭取になった。(昭和43念三井銀行取締役相談役。48年童相談役。49年5月24日死去)