司忠(松善社長) 経済人12

昭和55年11月4日1版1刷 昭和58年11月18日1版7刷

 

①生家は千年余続いた伊勢神宮神戸の“司”

②家計苦しく進学を諦めて松善に丁稚奉公

③顧客カードをつくり科学的販売に成功

④麻雀は満州仕込み―解説書の出版も

⑤名古屋時代―地元文化と豊かな交流

⑥最年少重役に―子会社で大いにかせぐ

⑦本社建設の材木求め終戦直後雪の山歩き

⑧社長就任―決意も固く丸善再建の鬼に

著作権法の改正で対外信用の回復に努力

⑩民間の浄財を集め文化事業振興に尽力

⑪酒談義―昔はコップ酒の飲みくらべも

⑫創業百年―次の百年を担う人材に期待

 

明治26年10月5日豊橋市生まれ。代々伊勢神宮の神戸の司で、39代1020年に及ぶ。中学に進もうとして上京したが家の窮状が許さず、進学を諦めて、叔父の口ききで満13歳で丸善につとめた。仕事が終わると大学生がやってきて語学を教えてくれた。4年かかるところ2年2か月で手代となり、いじわるをする上役が嫌で転職を考えたが、母から反対され、人相を治す必要を知り、柔和な顔になってから出勤するようにした。顧客カードを整備することが販売の基礎だと閃き、一人で取り組み半年かけて完成させ、これにより仕事が能率的となった。市場開拓のために満州に出掛けた時に覚えた麻雀についてその起源をNHKが放送した際に調べたことを喋ったことで麻雀は一気に関西に広まり、多くの人と繋がった。大阪の販売課長の後に名古屋支店長を10年やり、本店支配人として東京に帰った。改革を断行し従来の代理店を全部切り、主要都市に販売会社を作ってその下に特約店を設けることにした。戦後、社長を引き受け、戦後初の鉄筋ビルとして丸善ビルを完成させ、株式公開に踏み切った。海外に三千軒を越える洋書の取引先があったので毎年のように海外に出掛けた。創業百年を迎えた丸善が次の百年を本当の秘薬に向かって踏み出すために担い手を早く育てることを日夜考えている。(昭和47年丸善開錠。48年より同相談役)