昭和55年10月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版7刷
①早稲田中学を四年で終え水戸高校へ
②外務省にはいり、米国に一年余留学
③使い切れないほどの北京時代の給料
⑤ペルリン勤務で日独経済同盟に一役
⑥ポツダム宣言受諾の文言作成に参加
⑧悲壮感漂う中を社運をかけて北洋出漁
⑨山地、小笠原、南の三代社長に仕えて
⑩社長に就任し“紳士の魚屋”を訓ず
・神田で生まれ芝で育った江戸っ子である。早稲田中に進み、水戸高を経て東大法学部に進んだ。外交官試験を受験し350人のうち6人の合格者のうちの1人になった。プリンストン大学大学院に留学し、満州に2年いた後、外務省に戻り、日独の関係が密接の度を加え、駐独大使の大島浩さんの下で日独同盟の経済部門を担当した。米国大使館時代に欧亜局長だった東郷茂徳氏と来栖駐独大使の2人は外交官として傑出していた。企画院に出向後、内閣参事官に転じた。終戦後は情報局第三部長に任命され、調査局長となった。昭和23年に吉田首相に勧められて外務省を一旦やめて極洋捕鯨に専務として入社した。後に吉田さんは外務省に戻そうとしてくれたが小笠原三九郎社長が一言もなしに断ってしまい、次の南俊二社長も大使のポストを断ってしまった。社業はほとんど任されていたので致し方ないことであった。最初の山地土佐太郎社長は強情我慢の立志伝型の人で徹底して値切った。山地社長も3人目の南社長も人を休ませないことで困らされた。南社長もケチに徹していた。小笠原社長からは人の一生にはコンクリートの壁にぶつかるような思いをすることが2度や3度はあるものだが、そこでへこたれるか、そうでなく鼠の穴をみつけ丹念にはがしていけばいつかくぐれる穴になるから、へこたれないかのどちらかだと教えられた。昭和29年に社長に就任し、個人色の色合いがつよかったのでそれを払拭するのに務めた。(昭和53年より極洋相談役)