陽炎の門 葉室麟

2016年4月15日第1刷発行

 

裏表紙「下士上がりで執政に昇り詰めた桐谷主水。執政となり初登城した日から、忌まわしい事件が蒸し返され、人生は暗転する。己は友を見捨て出世した卑怯者なのか。自らの手で介錯した親友の息子が仇討ちに現れて窮地に至る主水。事件の鍵となる不可解な落書の真相とは―武士の挫折と再生を切々と訴える傑作。」

 

豊後鶴ヶ江六万石の黒島藩(架空の藩)は黒島興正を藩祖とする。他の作品「山月庵茶会記」「紫匂う」にも黒島藩は登場する。家禄五十石の家に生まれた桐谷主水は、両親を亡くし、天涯孤独の身だが、37歳の若さで黒島藩の執政の一人に推挙された。執政会議の開始前、芳村綱四郎の切腹と後世河原騒動が話題になった。主水は眉尻に傷がある。主水はこの傷を無意識に触るのが癖だった。会議が始まり、藩主からその癖を直すよう言われた。この傷は主水が17歳の時、後世河原騒動の際に負ったものだった。城下の直心影流諸井道場と浅山一伝流荒川道場に通う藩士の子弟が人をかき集めて二十数人で決闘騒ぎを起こし、それを聞きつけた主水と綱四郎は止めに入ったが、死人が2人、腕を斬り落とされる等、ひどい怪我をした者もいた。綱四郎は藩主を誹謗する落書を書いた咎めを受けた。「佞臣ヲ寵スル暗君ナリ」が綱四郎の筆跡と主水が証言したのが決め手となり、綱四郎は切腹を命じられ、綱四郎の希望で主水が介錯を務めた。10年前のことである。この一件は主水の心に傷跡を残し、鋼四郎への負い目となった。主水は綱四郎の遺児・娘由布を親子ほどの年齢差がありながら妻として迎えた。由布の弟芳村喬之助は父の敵討ちを藩に願い出た。主水は家老の尾石平兵衛に呼び出され、家老の執務室で町奉行の大崎伝五から「芳村綱四郎ハ冤罪也、桐谷主水ノ謀也」と記された書状を見せられた。綱四郎の筆跡と同じ筆跡で書かれ、末尾に別の筆跡で「百足」と記されていた。執政になった翌日、主水は己の証言が正しかったことを証明しなければならなくなった。喬之助は剣術の師匠直心影流貫井鉄心の供をする形で兄弟子竹井辰蔵と一緒に三か月後に戻って来る。その間に主水は何があったか明らかにする必要があった。大崎伝五は主水には書状を託せないと言い、小姓組の早瀬与十郎に書状を託し、主水に同行させた。主水への監視役でもあった。主水は綱四郎と一緒に学んだ学塾の恩師孤竹先生を訪ねることから始めた。恩師は鋼四郎の筆跡であると言い、切腹事件と騒動に関連があるかのように言った。その恩師が直後に賊に襲われて絶命した。妻由布の行方が知れないがしばらくして由布から無事を知らせる手紙が届いた。恩師の妻に森脇監物に会うようにとの恩師の言付けを聞いた主水は監物に会いに向かった。途中で辰蔵が待ち構えていた。辰蔵と相打ちになった主水は監物の家に運ばれた。気が付くと由布が看病してくれていた。監物は意識を回復した主水に、早瀬与十郎がいる前でしか話をしないと言う。早瀬は次席家老の四男だった。騒動の際に腕を斬り落とされたのは家老の嫡男一蔵で、斬ったのは鋼四郎だった。早瀬は騒動で死人が出、兄の一蔵が何故に腕を斬り落とされるに至り、鋼四郎が切腹するに至ったのかという一連の顛末を主水に語った。監物から百足の正体は、臥龍亭を見ればわかると教えられた主水は登城して臥龍亭を訪れた。茶室にかけられた扁額に「百戦一足不去」とあり、署名は「曙山」とあった。曙山とは藩主黒島興世のことだった。主水が井沢泰輔から聞かされた百足の字は主水も見ているという意味を悟った。敵討ちの場は主水の希望が叶い後世河原となった。そこで藩主は、鋼四郎との約束を違え、これまでの自らの謀略を自身の口で語っている最中に城内では筆頭家老らが評議を行い、藩主押し込めを決めた。その藩主を主水が斬ろうとした時、主水に代わって討った者がいた。全ての事件は解決し、桐谷主水は三席家老、次いで次席家老となった。