2009年6月10日第1刷発行
目次
第6章 大津攻めの無策―立花宗茂
第7章 敵の主力を阻む―真田昌幸
第8章 大合戦の開幕―島左近
第9章 西軍の勝機―宇喜多秀家
第10章 南宮山の別働隊―毛利秀元
第12章 崩れる西軍―小西行長
第12章 智将の最後の戦い―直江兼続
西軍最強の立花宗茂だったが、大津城攻めに予定よりも日数がかかり、関ヶ原の戦いの当日に参戦が間に合わなかった。大津六万石の領主京極高次が謀叛を起こしたためだった。真田昌幸は上田城を攻め落としあぐねた徳川秀忠の軍を足止めし、秀忠も関ヶ原の戦いに間に合わなかった。島左近は石田三成の軍師として大垣城で作戦会議を開き、総大将の毛利勢が大津攻めを終えた立花宗茂と合流すれば勝利すると読んでいたが、小早川秀秋の謀叛により計画が大きく狂った。秀明の謀叛により毛利家が動かなくなる可能性が出て来たからだった。その中でも唯一の勝機は関ヶ原合戦の当日、宇喜多秀家が総攻撃をかけ、東軍の福島隊を5丁余り後退させた時だった。この時毛利勢が動けば歴史は違ったものになったかもしれなかったが、小早川秀秋の謀叛の情報を得た毛利秀元は、家康有利と判断して、三成から出陣を促す合図の狼煙が度々上がっても動かなかった。堺の豪商の次男小西行長は備前国大名宇喜多直家に召し抱えられたが、秀吉に惚れ込み秀吉のために働いたが、朝鮮出兵の際に周囲から誤解を受けた行長を弁護してくれた三成と共に戦い、大谷吉継と平塚為広の最後を知った後は負けを覚悟して潰滅した。反徳川の旗印を掲げて戦ったのは会津の上杉景勝ただ一人となっていた。三成と心を許し合った同年代の直江兼続は三成がかくも簡単に敗れた理由が分からなかったが、家康との和睦しかないと判断し、上杉景勝は120万石のうち90万石を没収されて米沢30万石を上杉領とする沙汰に甘んじた。
三成、行長、恵瓊は処刑され、大谷吉継は自害、島左近は戦死とも言われるが不明。宇喜多秀家は流罪、真田昌幸は和歌山に送られ、毛利輝元・毛利秀元・上杉景勝・直江兼続は領地を削られて生き残った。輝元は広島から萩に、秀元は毛利家の支藩に、景勝は米沢に、直江兼続は景勝の下で家老として六万石を与えられた。一旦領地没収後に大名として復活した立花宗茂は柳川十一万石の領主に返り咲いた。