哲人たちの人生談義 ストア哲学をよむ 国方栄二

2022年7月20日第1刷発行

 

帯封「〈生きること〉としての哲学を追い求めた人びと セネカ エピクテトス マルクス・アウレリウス」「古代の哲人たちは哲学を学ぶためにさまざまな道を示してくれている。かつて哲人たちが歩んだ道を歩んでいくのは、それに関する情報をあたえてくれる大学の哲学教師たちではない。むしろ、これを学ぼうという意志のある人自身なのである。―本書終章より」

表紙裏「『幸福とは何か』。哲学は、このシンプルにして解きがたい問いから始まり、その問いに身をもって対峙したのはストア派の哲人たちであった。ギリシアからローマにいたる西洋古代哲学の系譜をおさえつつ、エピクテトスセネカマルクス・アウレリウスらのゆたかな言葉から、〈生きること〉としての哲学を手繰りよせる。」

 

序 章 幸福問答

第1章 新時代のための哲学―インぺリウムの下で

第2章 自然に従って生きる―自足する心

第3章 自由に至る道を探す―意志と自由

第4章 必然の呪縛を逃れる―運命と摂理

第5章 情念の暴走を抑える―理性と情念

第6章 失ってはならぬもの―人格と尊厳

終 章 哲人たちの人生談義

 

序章では、ニーチェの「人間は幸福を求めて努力したりしない。そんなことをするのはイギリス人だけだ」(『偶像の黄昏』「箴言と矢」12)は、イギリスの功利主義者を揶揄した言葉が印象的である。かの哲人たちにとって幸福であることは、人間の生まれもった願望であって、選択の問題ではなかった。

第1章では、ピタゴラスの比喩の項で、レオンから哲学とはどのようなものかと尋ねられたピタゴラスは、古代オリンピックに集まってくる人には3つのタイプがいて、競技会に出てそこで賞をを得ようとする人、そこに市が立つから商売をして金儲けをしようとする人、この競技会を観るためにやって来る人がいるが、人生においてもこれと同じで、自らが生きる目的を名誉、名声におく者もいれば、利得におく者もいれば、自然のありかた(真実)を観ることに熱心な者もいる。これが愛知者すなわち哲学者である(キケロトゥスクルム荘対談集』第5巻3.8-9)、が紹介。また古代ギリシアの最も突出した哲学派はストア派エピクロス派。ストア派創始者ゼノンはクレアンテスを後継者として選び、その次のストア派の学頭を継いだのがクリュシッポス(ストア派の学説を確立)で、「クリュシッポスなくしてはストア派なし」と謳われた。エピクロス派の創始者エピクロスエピクロスの園(学園)を開いた。ローマ最大の文人キケロギリシア文化の案内人。キケロの没後、哲学がローマに浸透し、セネカ、エピクロテトス、マルクス・アウレリウス(いずれもストア派)は今日でもよく読まれている。

第2章では、プラトンアリストテレスは、心の中に生じる葛藤とは、魂の異なる部分、理性的な部分と非理性的な部分(欲望的部分と気概の部分)との対立だと考えたが、ストア派は欲望的部分や気概の部分など存在せず、人間の指導的部分はその全体が理性的なものだと考えられている。情念を克服すると、最後には情念に惑わされることがない状態に至り、このような境地に至った者がストア派の理想とする賢者である、と説明。エピクロス派は快楽主義者と言われるが、エピクロスは身体的な快楽よりも魂の快楽のほうがより大きく、重要となる。

第3章では、セネカの「私たちは日々死につつある」(『倫理書簡集』24,19)、「どんなことでも予期している者にはその分だけ打撃は少ない」(『賢者の平常心について』第19章3)、「汝自身を知れ(グノーティ・サウトン)」というギリシア語は、人間が死すべきものであることを忘れるなという意味である、ローマの詩人ホラティウスの作品に出てくる「カルペー・ディエム(今日の実りを摘み取れ)」は西洋人ならだれでも知っている言葉、「私を縛るのか。君は私の足を縛るだろう。だが、私の意志はゼウスだって支配することはできない」(エペクテトス『語録』第1巻第1章25頁)などが紹介されている。

第4章では、「意志は自然本性において自由で強制されぬものである」(『語録』第2巻第15章〔上巻263頁〕)、「宇宙即変化、人生即主観」(『自省録』第4巻3〔51頁〕)などが紹介。

第5章では、セネカは「怒りは必要なものである。怒りがなければ、怒りが心に満ちあふれ気概に火をつけるのでなければ、なにごとも打ち破ることができない。ただし、怒りを指揮官としてではなく、兵士として扱わねばならない」(『怒りについて』第1巻9,2がアリストテレス『政治家』引用)、ストア派は怒りが理性に従うならばもはや怒りではないと反論。エピクロス派は人の性格の善し悪しで怒りの善し悪しも変わってくるという。「城砦はどうやって破壊されるか。剣でも火でもなく、人の考えによって破壊される」(『語録』第4巻第1章〔下巻213頁〕)。

第6章では、ストア派が西洋哲学史の中で唯一自殺を容認したと一般に考えられていることを取り上げ、ソクラテスプラトンにも同様の考え方があり、人間の尊厳を保持しつつ生きること、逆にいえば尊厳や人格の喪失を防ぐための手段として自殺を捉え、安楽死ないし尊厳死と関連付けて議論を展開している。

終章では、ストア哲学は実践を求める思想である、決して諦めの哲学ではない、が、結局、哲学を学ぶというのはどういうことか。情報的知識を学ぶだけではなく、自分で考え直してみる、プラトン風に言えば、学ぶ人の魂(心)に光明が点じられるようになるまで考えるというようなまとめをしている。