史記の風景 宮城谷昌光

平成12年5月1日発行 平成17年1月15日14刷

 

裏表紙「古代中国二千年のドラマをたたえて読み継がれる『史記』。中国歴史小説屈指の名手が、そこに溢れる人間の英知を探り、高名な成句、熟語のルーツをたどりながら、斬新な解釈を提示する。この大古典は日本においても、清少納言織田信長水戸光圀坂本龍馬にと、大きな影響を与えていたことに驚愕させられる。世のしがらみに立ち向かった先人の苦闘が甦る101章。」

 

人知の宝庫

 日本では弥生時代の中期にあたる時期に、司馬遷が「史記」を完成させた。構成は「本紀」「書」「表」「世家」「列伝」となっており、「本紀」と「列伝」が組み合わさった「紀伝体」は司馬遷の発明である。「史記」第1巻は「五帝本紀」であり「黄帝は小典の子なり。姓は公孫、名は軒轅(けんえん)という」という記述から始まる。

 

死の習俗

 礼記によると、天子が死去することを「崩」、諸侯は「薨」、大夫(小領主)は「卒」、士は「不祿」、庶人が「死」という。喪中は白い喪服だったが、白衣は不吉であるため、晋の襄公は秦軍を伐つ際に白い喪服を黒に染めて戦陣に向かった。大勝し帰ってから黒い喪服のまま文公を葬った。喪服の黒はここから生じたとも言われる。

 

商民族の出自

十干とは、甲、乙、丙、丁・・のことであるが、甲の字は「十」である、別格な数である、白川静博士『甲骨文の世界』によると十の字形を囲む四角は、「祀主をおく石室の象形である」とあり、十は恐らく木を組み合わせ、人の形にした位牌のようなもので、それを石づくりの室に安置した、それが甲である。甲はもっとも神聖で最上位に置かざるを得ない字であったのではないか。

 

竜のイメージ

燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや(『史記』「陳渉世家」)は陳渉の若い頃の言葉。秦王朝打倒の先陣を切ったのが陳渉である。

 

天下三分の計

これを始めに説いたのは諸葛孔明ではなく、楚漢戦争期の接客である「蒯(かい)通」である。蒯通が韓信に献言した言葉である。

 

長幼の序

 光圀は手に負えない不良だったが、18歳の時、『史記』「伯夷列伝」をよみ、感動し、人が変わった。

 

秦帝国の首都

 中国の地名における陽は川の北か山の南を表し、陰は川の南か山の北を表している。日本で山陽とか山陰とかいうのはその表現のなごりである。

 

名とあざな

 あざなの存在は中国人の思想をよく表している。あざなは生まれてすぐにつけるものではなく、成人となった証としてつけるものである。本名は家族の中で使い、あざなは対外的に使う。成人に達すると、家の外の人とのつきあいが始まり、そのためにもう一つの名を用意するのである。

 

武帝への復讎

 「列伝」の冒頭は「伯夷列伝」である。「列伝」の第2は「管晏列伝」である。司馬遷が李陵を弁護し、激怒した武帝宮刑に処せられたことは有名だが、こういう順序にしたことで寛容力に欠けた武帝に復讎したと著者は見ている。

 

召の系統

 革命を成功させるために東奔西走し、仲がよくなかった召と周を連合させた太公望坂本龍馬に似ている。坂本龍馬太公望に似ているといった方が先賢に失礼がない。

 

宮廷料理人

 料理人が宰相の位にのぼった例としては伊尹が最も有名である。

 

これ義人なり

 仁が絶対の自己を完成させる原理であるのにたいして、義は社会人としての自己を確立させる原理である。義人は「伯夷列伝」から発している。

 

数の単位

武王が紂王を討つ場面は「周本紀」と『書経』で補うと、「受(紂王)の臣億万有るも、惟れ億万の心。予、臣三千有りて、惟一心。」となる。

 

刺客列伝

 「士は己を知る者の為に死す」は豫譲の言葉。

歌うということ

 折口信夫は『国文学の発生』のなかで「うたふからうたひと訴へとが分化して来た」といった。

 

蘊蓄が半端ないです。